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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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『况翁閑話』(12)-人は短所に敗れずして長所に敗る

 熟(ツラツ)ら自ら一身を省みて、其最も長所なりと自信する所に注意せざれば、其長所の為に敗を取り、又長所なりと自信しる所のもの多くは真の長所にあらずとは、余が幼時(オサナキトキ)先(マズ)大人に承りし所の金言也、成長の後これを世事に対照するに、多くは然り、其一二の例を挙ぐれば、余の老友に太刀川柳所という人あり、俊才にて多芸なり、囲碁は其最も得意とする所なりしが、余一日其又友人圓山貝陵という人に太刀川は多芸なるが、就中(なかんづく何が最も秀抜なるかと問いしに、貝陵曰く、彼れ常に多芸に誇れども、其言未だ甞て算数に及びしことなし、恐く此算数尤も諸芸に秀抜したらんと、後ち之を調査したるに、諸芸中最も秀たるは果して算術なりし、

 太刀川柳所及び圓山貝陵について、小千谷市立図書館の新野氏から問合せに関する回答があったので紹介する。

1.『丸山貝陵』は片貝町の江戸時代からの私塾、「朝陽館(ちょうようかん)」後に「耕読堂(こうどくどう)」という塾の先生です。 片貝の酒造家に生まれ、片貝で鶴田千里、横井豊山に学び、豊山の去った後、江戸に出て荻原緑野の塾に入った。弘化3年(1846年)片貝に戻り、耕読堂の塾主となった方です。 丸山貝陵についてはいくつかの資料があります。「北越詩話」下巻や「越佐人名辞書」等にも記述があります。 この私塾では相沢南城の親の相沢北溟先生も2代目の塾主をされて、3代目は皆川葵園先生などがいます。 丸山貝陵と石黒忠悳の父親が幼年時代の親友であり、片貝の池津へきてからはこの塾で石黒忠悳も助手をしたようです。

 藍澤南城との接点が出てきた。 これは、関矢孫左衛門との越後巡遊との関わりも推測され、興味深い。 改めて調べてみたい。 尚、丸山ではなく圓山は、石黒忠悳の記憶違いだろう。 これに関しても、長岡藩の医家・丸山家との関係が推測され、もし関係があるのであれば、医学史的にも興味深い。

2.『太刀川柳所』については、今のところ不明です。確かに石黒忠悳の「况翁閑話」には太刀川柳所が出てきますが、片貝には昔から太刀川家が多くありますが、不明です。ただ石黒忠悳の勘違いということであれば、同じ塾に横井豊山先生が帰られた後に『浅野柳所』(東海と号す)という先生がしばらくいたという記述はあります。 丸山貝陵が耕読堂の塾主になる前の塾主になります。 石黒忠悳があるいは思い違いをしたのなら、この先生という可能性もありますが、不明です。

 石黒忠悳の著作は、記者による聞き書きが多く、しかも『况翁閑話』やその続編、また『懐旧九十年』にも記憶違いがしばしば見られる。 他の資料も検討して調べてみたい。

(注)太刀川柳所: 調査中
(注)圓山貝陵: 調査中

 古人曰、味噌の味噌くさきは上味噌にあらず、儒者の儒者くささは大儒にあらずと、真なるかな。

 越後魚沼郡の山林に一老農あり、長髯(チョウゼン)雪白常に郡中無比と誇称す、一日人あり来りて慇懃に交を求め、美髯を賞歎して止まず、後日一僧と共に来りて曰く、此翁を労すべき事あり、そは貴翁の美髯之を此山村に置くを惜み、広く衆人に示さんとす、然れども唯髯の美なる而巳にては人之を尊敬すること薄し、因て木食上人なりと称せば人之を敬信し、捐財寄附も亦多かるべし、貴翁凡三十日間我輩に擁せられ、輿中に舁(カツ)がれ、尊敬を受けつゝ各村を巡り、日中は陽に食をなさず、夜間竊(ヒソカ、窃)に飽食せられば三十日にして少なくとも金百両を頒(ワカ)つべし、若し金百両あらば、如此老身を此来耜(ライシ、すき)に労するに及ばざるべしとて、甘言以て勧めければ、老翁其自ら誇る所の美髯を人に示すの栄と、百両を得るとの慾にかゝり、遂に之を諾し、此輩の擁する所となりて輿に舁(カツガ)れ、日中食わず、夜間竊に一握の圑(団)飯を食う而巳にて各村を巡りしに、美髯木食上人の名一時各地に嘖々(サクサク、口々にやかましくうわさするさま、口々にほめそやすさま。「名声嘖々」)として信者群を為し、賽銭多く集れり、其後古志郡某村の山中にて或る樵夫(キコリ)は山間に一老翁の衰弱して起つこと能わず困臥するものあるを見出し、近づき介抱して聞き糾(タダ)せば、此れ美髯木食上人にして、乗輿巡村の末一銭をも頒與(ケンヨ)せられず、山中に遺棄せられしことを語る、於此(ここにおいて)樵夫擔(ニナ)い帰りて遂に其家に送致せりという、若夫此翁の如き其自ら信ずる美髯の為に此災を得たる也、世上自信する所の為に敗を取り、又悪少年の為に輿に迎えられ、遂に山中に棄らるゝ者或はなしとすべけんや。

 評曰、藩閥の元老才識已に陳腐なるも、尚自ら之を揣(ハカ)らず、少壮の策士に擁せられ往々失敗するものあり、宜しく此に鍳(カンガ、鑑の異体字)むべきなり。

(注)木食上人(モクジキ): 1718年(享保3年)- 1810年(文化7年)は、江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。 「ウィキペディア」より。

  この話、余ほど自信のある人の言だといえる。 大抵の人は短所で失敗するものだ。 その自分の短所を知ればこその言葉だろう。 凡人は、自分の長所を知らないか、あるいは、それを活かせない。 最近は教育も米国風で、長所を引き出し為に叱らずに誉めることを奨励する。 自信が無ければ、気力が萎える。 気力が萎えれば、流れに沿って竿をさせない。 目の前の急流で躊躇する。 揚句の果てに転覆か。 概して、自信に溢れている時代は華やかだ。 その華やかさが時代さえも導いていく。 ケインズの謂う流動性選好。 同時に、そうした時代には、革新と回顧が同居する。 最新のファッションと伝統文化。 「人は短所に敗れずして長所に敗る」とは、維新の自信が傲慢へと変化し、華やかな外見の陰で、伝統への回帰が指向され始めた時代だったのではないか。 明治中期辺りから、藩閥に属さない社会の中堅を形成する知識人が急増する。 評者である坪谷善四郎は藩閥を意識して評しているが、况翁は寧ろ、藩閥の短所ではなく、新興する反藩閥の長所に対して、警鐘を鳴らしているとも取れるのだが、さて、その本心は何処にありや。

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