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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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 『况翁閑話』の緒言を省略していたのだが、矢張り、これを省略する訳には行かないようだ。 そこで、遅ればせながら、それを掲載する。

 人の世に立ち志を成す、頼る所あるなり。 其所、頼なくして立世成志する者、古来稀なり。 明治維新は志士風雲に乗ずるの時期、而して此に三拾四年、其間、世に立ち志を成し名を一世に揚げたるもの幾千百、然れども仔細に其出所を尋繹すれば、曰(イワク)藩閥、曰夤縁(インエン、てづる、つて)、此二に頼らざるものは私に其技術を鬻(ヒサイ)で、以て之に頼るものなり。 彼の聳肩(シュウケン、肩をそびえさせ)謟笑(トウショウ、疑って笑う)、以て上長の歓を迎え、姦商と結託して、上長の財を殖し、酒楼に随伴して愛妓を妁し、以て身を立て栄を得る輩に至っては、此に列するに足らざるなり。 何をか藩閥と謂う。 身雄藩に生れ、若くは身を雄藩に投じ、藩威を負うて進み、同藩旧故の元老に頼て、身を立る者是なり。 何をか夤縁と謂う。 元老若くは豪富の子女を納(イ)れ、若くは之に子女を納れ、其姻戚となりて縁を求め身を頼るもの是なり。 何をか技術を鬻で之に頼ると云う。 碁奕(ゴエキ、奕も碁の意味)書画謡舞歌曲を巧にし、若くは愛妾狎妓(ギョウギ、芸妓)の病疾を療し、以て権家(ケンカ)豪紳の歓を迎うる等、其他此類、皆是なり。 如此の世に立ち身を一介の書生に起し介然(しばらくの間)自立、藩閥なく夤縁なく、又一点技術を私鬻(シシュク)するの媚侫(ビネイ、こびへつらう)なく、全く身を職事に尽し、遂に藩閥元老輩に信敬せられ、職事を以て外国の識者に称賛せられ、身健に名盛なるに方(クラベ)て断然冠を挂(カケ)て栄を後進に譲りたる者、况翁石黒男(男爵)を除て、亦誰かあるや。 蓋(ケダ)し男の脳髄、常に冷静、大事に対して動くことなく、小事に応ずるに、忽(ユルガセ)にせず、平常の談片語屑洋々旨味滋(マ)し、太陽記者、此に見あり、明治三十一年より同三十二年に亘れる間、時事に応じて談話せらるるものを得る毎に、之を世に公にし積て数十に至る。 諧謔の間、憂世警人する所深し、既に白玉楼に帰り、雪池翁(福沢諭吉の事)亦尋て逝矣、警世の語を聞くこと稀なり。 幸に况翁在るを以て、世未だ寂寥(ジャクリョウ)ならざる也。 男翁と称するも齢(ヨワイ)未だ耳順(60歳、論語の「六十而耳順」より)に達せず。 世人尚翁に望む所あるなり。 此編宜しく男の実歴談及况翁叢話と併せ見る可きなり。
 明治三十四年十月  坪谷善四郎謹識

(注)太陽記者: 『太陽』は、大橋佐平の博文館から明治28年1月に創刊された雑誌。 記者とは、坪谷善四郎の事。 尚、坪谷善四郎については、『况翁閑話』の第一回を参照の事。
(注)白玉楼に帰り: 「白玉楼中の人となる」(『書言故事』にある、唐の文人李質の臨終に天の使いが来て、「天帝の白玉楼成る、君を召してその記を作らしむ」と告げたという故事による) 文人墨客の死ぬこと。 (広辞苑)
(注)耳順に達せず: 明治34年、石黒忠悳(况翁)は、57歳。 この年、予備役に編入され、日比谷公園の設計に参加している。 因みに、日比谷公園が完成したのは、明治36年だった。
(注)况翁叢話: 『况翁叢話』は、明治34年2月25日発刊、民友社から出版された。 内容としては、閑話と異なり、経験談的傾向がある。 因みに、第一回は、「佐久間象山先生に見(マミ)えし時」である。 また、同文集中にある「飲食物検査に就いて」は、『柏崎通信』の「脚気論」に関する記事に引用している。 尚、『况翁閑話』の後に、『况翁叢話』を掲載する予定である。

Best regards
梶谷恭巨

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