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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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(18)-少年学生鑑定法

 余は書生を愛し、世話をして就業せしめし者も沢山あるが、さて大成し又大成せずとも、せめて一人前になりて、家に出入りする者は誠に少く、十人に付二人とも当らぬなり、必竟余の眼力鈍くして人を見るの明あらざるに因るといえども、又一ツには涙もろく欺くに道を以てせらるるによるなるべし、併(シカ)しだまされて私財を取らるる結果は女にだまされて金を取らるるよりも、書生にだまされて金を取らるる方が余程馬鹿げて居るから、如此事は内々だ、ここに思出したる逸話あり、昔年桂川家の塾に在塾並に通学の洋学書生が沢山ありしが、年久しく此塾に居る老僕に信蔵という者あり、此信蔵が必ず成業すべしと見留たる書生に、一人として成業せぬ者なく、人皆其明識を感心したり、一日桂川先生が信蔵を招き、汝はいかなる方法にて書生を鑑定するかと尋ねられしに、信蔵曰く是はわけもなきことなり、下駄傘を必ず返す人が必ず成業するなり、他に鑑定の法なしと(その通学の人ならば、俄雨の時塾から下駄傘を借りて家に帰り、其翌日必ず持来りて返す人、又在塾生ならば外出して雨に逢い、他家にて下駄傘を借用し来り、其翌日必ず返しに行く人なり)、信蔵の此言実に肯綮(コウケイ、骨に肉がはまりこんで、骨と肉が結合している所。 そこに包丁を当てれば、肉を骨から切りはなすことができるので、物事の急所、重要な点の意に用いる。 中肯綮、物事の重要な点をおさえるの意)に中れりというべし、人を見るには大事に於てするよりも、寧ろ小事に於てすべしとは古人も謂えり、余や桂川の老僕信蔵に及ばざること遠し。

 評曰、胸に一定の則あり、以て人を見るに足る。 若し臨時の奸悪を見て人を見は、今日の賢者明日の愚者ならざる者、盖(ケダシ、蓋)鮮(スクナ)し桂川氏の僕の談、先生の聞を得て人を見るの準備となる、亦幸と謂う(「つ」とあるが誤字だろう)べし。

(注)桂川家の塾: 桂川甫周のことか。 四代目・桂川甫周は、桂川家三代目・甫三の嫡子として、宝暦元年(1751)生まれ、名を国瑞(クニアキラ)、通称を甫周、号を月池・公鑑・無碍庵、字を公鑑といい、文化6年6月21日(180982日)に没した。 七代目・甫周は、文化9年(1826)に生まれ、名を国興(クニオキ)といい、明治14年(1881)9月25日に没している。 年代から観るに7代目・甫周ではないかと思われるのだが、『懐旧九十年』に記載が無い(見落としているのかも知れないが)。

 さて最近では、「書生」という言葉自体が死語なのかもしれないが、私が学生の頃は(40余年前)、未だその意味を成していた。 後に衆議院議長を務めた養父は、ことに書生を好み、狭い借家住まいにも係らず学生の出入りには常に寛大で、書生部屋なるものを設け、時には声を掛け、「勉強しとるか」といったものだ。 学生運動が激しい時代で、学生といえば、皆、全共闘かといわれた時期だ。 警察からは警備上、責任が持てないと、何度も電話が掛かった。 それを云うと、血相を変えて怒った。 「若い者が出入りしないような家は政治家の家とは言えない」と。 文部大臣の頃、最寄の警察署から直通電話を設置してもらいたいと言って来た。 「そんなものは要らん」の一言である。 それでも警告の通報は入ってくる。 「駅前に数十名の学生が決起集会を開いています。 ご注意願います」と。 家には養父母と私、それに住込みの書生しかいないのだ。 「ほっとけ、何百人でも来ればよかろう。 狭い家だから入れんかもしれんな」と、こうんな調子なのである。 「どうも最近は、書生を下僕くらいにしか考えない輩が多すぎる。 自分が若い頃は、皆、書生とは有為の若者と考えて、大事にしたものだ。 今の時勢じゃあ、学生諸君が騒ぐのも致し方ない。 騒ぐ前に議論をせにゃならん。 それが今は無い。 それがいかん。 そういう学校を創らんといかん」と。 その意味もあるのか、故郷の山に因んで、号を「陀峰」と号したが、私が聴いた所では、「陀羅尼」の「陀」と「峰」は「泡」で、知恵の泡なのだそうだ。 ある時、「それをやる」といい、文机にあった色紙をもらった。 「お前は、王維が好きだったなあ」と付け加えて。 すなわち瓜園詩の「素懐在青山、若値白雲屯(素懐は青山に在り、もし値すれば白雲に屯す)」だった。 その当時は、その真意が解らなかったが、意に沿わぬ政争に嫌気がさしていたのかも知れない。

 何だか本論から逸脱してしまったが、昔のことを思い出してしまった。 ご容赦。

 因みに、前掲の王維の詩の全文は、次ぎの通り:

瓜園詩并序(王維集頁一三)
  維瓜園高齋,俯視南山形勝。二三時輩,同賦是詩,兼命詞英數公同月園字為韻,
  韻任多少。時太子司議郎薛璩發此題,遂同諸公云。
  余適欲鋤瓜,倚鋤聽叩門。瞑騶導驄馬,常從夾朱軒。窮巷正傳呼,故人儻相存。
  攜手追涼風,放心望乾坤。藹藹帝王州,宮觀一何繁!林端出綺道,殿頂搖華幡。
  素懷在青山,若值白雲屯。回風城西雨,返景原上村。前酌盈樽酒,往往聞清言。
  黃鸝轉深木,朱槿照中園。猶羨松下客,石上聞清猿。


Best regards
梶谷恭巨

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