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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第二回 (続き)

 此清水の父と申すは、清水金作とて幕府の頃は広く諸大名の用達を務めたる歴々の町人なり。 御一新の後は身代も少し傾(かたぶ)きて、原(もと)の如くには有らざりしかど、幸いに是までの用達金が公債の処分と相成ったるに附き、再び息を吹返し、銀行諸会社の株をも数多(あまた)所持なし、駿河台甲賀町辺に家を構え裕福に暮したり。 子供は男子(おとこ)両人女一人を設けたれども、総領の娘は七歳のころに死し、末子(すえっこ)も亦、生れて程なく失(な)くなりたれば、僅に一人の男子のみにて、是が即ち清水潔なり。 然るに金作の妻が明治十七年に身まかりて後は、また後妻(のちぞい)を迎えず、潔をば大切に育て、十二歳の頃には尋常中学に入れ、十六歳の頃には高等中学に転じて勉強せしめ、只管(ひたすら)に其成業の日をのみ楽しみとしたるに、如何なる宿世(しゅくせ)の因果にてやありけん。 明治二十一年の夏に至りて、金作は胃病に罹り、兎角

に気分の勝れざりければ、医師の勧めに由(よ)り、且は鉱山の塲所見分かたがた、七月上旬に東京を立ちて、会津地方に赴き、十三日より磐梯山の温泉に療浴したるに、其月十五日の朝、おもい掛なき磐梯山の破裂噴火の変に遇い、非業の最期を遂げ、空しく泥灰の中に葬られたるぞ無慙(むざん)なる。 潔は此変を聞きて親族と共に急ぎ其塲所に駆付たれども、固より救うべき手段とても無く、遺体(なきがら)さえ漸くの事にて、人夫を頼みて掘起したる位の事なれば、泣々其近傍にて荼毘の煙となし、白骨を携えて東京に帰り、法(かた)の如く谷中なる菩提寺に葬り、扨(さ)て夫より親族うち寄りて、家事取纏め方の相談に及びたるに、清水の家には金作と潔の父子(おやこ)のみにて、其他は皆召使の男女ばかりなれば、潔が家を立る迄は斯(か)く多人数のものを用もなきに抱え置くに及ばずとて、中陰(人が死んで49日の期間)の過(すぐ)るを俟(ま)って、数多(あまた)の男女には皆暇を出し、其家屋家財は都(すべ)て売払いて資金に替え、取引の銀行に預け、潔は一旦叔父の家に同居する事に決したり。 此時、潔は十九歳にて、才智に秀で学術も優等なるが上に、生得温和にて沈着たる若ものなりければ、深く其身の上の前途を考えて、浮(うか)とは人の口車に乗らず、親族及び懇意の向に、清水が家産を目的に種々(いろいろ)と信切めかしく相談相手に成て遣ろうと云う、お世話焼があれば、潔は宜(よ)き程に接遇(あしらい)て打払い、一人にて其処分を工夫したるが、去るにても父の金作が所有財産の中にて地所家屋家財公債株券の類は発輝(はき)と分てあれど、銀行への預け金、諸所への貸出し金は何程ありしや更に分らず。 勿論、帳面類証文類も慥(たしか)に父が手許の用箪笥に入れ置いてあったに相違ない事は知ったれど、磐梯山の変事の頃には、潔は学校暑中休にて学校朋儕(ともだち)両三輩と打連れて信州の方に旅行したれば、変事の電信を請取ると其侭に、旅行先より駆付たるに付き、帰宅の上にて取調べたるに、帳面類はあれど肝心の銀行通(かよ)い帳や貸金帳は見えず、証文箱の内も反古証文計(ばか)り、十余通あって生(いき)たる証文は尽々(ことごとく)紛失したり。 是は潔が未だ帰宅せざる前か夫とも葬式等の混雑に叔父なる清水山四郎が番頭と腹を合せて仕組し事ならんと勘は附たれど、証拠なければ持出す事も出来ず、潔は残念ながらも深く一人の胸中に蔵(おさ)めて色にも出さざりき。 斯くて其年の九月下旬に至りて、金作が百ヵ日の法会も鄭寧に執行(とりおこな)いて後に、潔は地面家屋株券其外をば、尽(ことごと)く売払いて整理、公債証書二万円を買入れ記名となして、是を父の代より取引の某(それがし)国立銀行に預け、其外に現金凡(およそ)一万円ありけるを、叔父が頻(しき)りに勧むるに付き止を得ず、叔父が取締役を勤め居たる某私立銀行へ年六分の利にて定期預金となし、此の利子と右公債の利子とを合せて毎年千六百円は潔が手に入ることに定まったり。 斯く家事を取片付たる上は別に用事もなければ、潔は兼て心懸たる西洋留学の志を決し、右の千六百円の中にて毎年千円づゝを留学の先に送り、残り六百円の中にて菩提寺の付届け諸税其外を仕払い、其残りは叔父の銀行へ預くる事に約定を取結び、潔は是より満十五年の留学にとて、同年十月中旬、横浜出帆の米国(アメリカ)飛脚船に乗込み、馴(なれ)し東京を後になして外国へは赴きたり。

 それより潔は十月下旬に桑港(サンフランシスコ)に着し、米国の大陸を経て、新約克(ニューヨルク、ニューヨークの事、紐育が一般的)に達し、同地より大西洋(アトランチック)汽船に乗りて英国(イギリス)のリバプールに着船し、倫敦(ロンドン)に赴きて学科を終(おさ)め、明治廿二年にはケンブリッヂ大学に入り、同廿五年に卒業して法科得業士(バチエロル・オブ・ロウ、バチェラー・オブ・ロー、B.L.)の学位を得、なおも同校にて研究の功を積み居たる。 内に日本にては、潔の叔父が株券の相塲に引掛って非常の失敗を招き、当人の身代は云うに及ばず、其銀行までも閉店と相成ったる騒動なれば、気の毒なるかな潔が預ケ金一万二千余円は皆無となれり。 幸に国立銀行の公債証書は記名ゆえ、叔父も流通する訳にゆかず、其上に其銀行の頭取が清水潔より預ったる公債なれば他人に渡すことは相成り申さずと、厳しくはね附けたるに由って、夫だけは傷が附かず、右の利子を其以後は彼の国立銀行より送り来るにて、潔は学資に差支なく勉強し、遂に学士(マスター)の位に昇ったり。 夫よりして潔は大陸に渡り、仏蘭西(フランス)、独逸(ドイツ)の両国にて有名なる大学に入りて、猶(なお)も其功を積み、凡そ法律経済商業の各科みな其奥儀を究め、殊に弁論文章に長じ、速記は尤も得意の技にてありける程に、諸会社あるは諸商店にても、潔を聘雇(へいこ)して、一廉(ひとかど)の役員に成さんと申入るゝも多けれど、潔は深き望みありとて、皆これを断りて、専ら実地の研究に力を用いたれば、到る処にて、日本人中抜群の人物なりと賞(ほめ)られ、別(わけ)て婦人仲間にては尤も評判よく青年の花とまでに呼ばれたり。

 斯く勉強の上にて、今は日本に帰り、事業に取掛かりても懸念ある可(べ)からずと、人も勧め自分も左こそ思いたれば、去らばとて今年明治三十六年の一月を以って仏国(フランス)のカレーより海底遂道(トンネル)の鉄道を経て、英国のドーバーに達し、三ヶ月ほど倫敦(ロンドン)に滞留して、再び帰路を米国(アメリカ)取り、加拿陀(カナダ、加奈陀が一般的)のワンクーウェル(バンクーバーの事)港を本月(八月)十日の夕に発し、同き二十日の朝を以て青森の港に着し、同所より直に鉄道に乗り、翌日廿一日の夜に東京には帰り来れり。 叔父の山四郎は其頃既に死し遺族が下谷お多福町に住い居るとの事なれば、先ず其方(かた)に落付くか、然らずば、其昔し父の金作が召仕いたる番頭某(それが)しが、お玉が池の宅か、又は旧友の某が山伏井戸の宅に落付かんと思いたれど、宿所が分らねば據(よんどころ)なく、其夜は日本橋辺の旅館(ホテル)に一泊して、明けなば誰を音信(おとづれ)て、心事を語り相談せんと思案したるに、郡樫蔵こそは差向き其人なるべけれ。 彼は随分いやな人物なれど、父が格別に目を掛たる漢(おとこ)なり。 其上に此節は身代も出来て紳士の列に加わり、殊には先年海防費献金にて従八位になったる位なれば、まさかに悪くは取計(とりはから)うまじき。 兎にも角にも、まず此漢(おとこ)を尋ねて見んものをとて、扨(さて)は本文の如く音信(おとづれ)たる事と知るべし。

 今回は、書くことも余りない。 物語の進展をただ見守るだけというところか。 ただ、これを読むと、何だかサッカレーの『Vanity Fair(虚栄の市)』辺りを読んでいるような趣がある。 桜痴の『戯著(ざれがき)』と比較にはならないが、漱石にもそんな雰囲気を感じる。 ヴィクトリア朝文学の影響を受けているのだろうか。 

Best regards
梶谷恭巨

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