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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第三回

44f45caf.jpeg 此人ならばと思いたる郡樫蔵は、思いの外の人物。 いかに清水潔が旧縁(ゆかり)のある仁であろうが、何のその、金になるなら此方からお頼み申してもお世話を仕よう、損がいく事なら真平御免を蒙りましょう。 併(しか)し貴君が銀行へお預けの公債を売払い二万円の現金を無利息で私へ御預け下さるなら只今でも直に宜しう御座る、と云う様c89d23de.jpgな気風を見て取り、清水は呆果て何(いず)れ近日また上りましょうと、ソコソコに挨拶して郡が宅を出て・・・・・・・・・・・ヤレヤレ驚き入たる驢馬(ドンキー)め、日本には猷太(ジューは居ないと思ったが、ドウしてドウして樫蔵を見たら正銘の猷太(ジュー)も肝を潰し三舎を避ける(『春秋左伝』僖公二十三年、「其避君三舍」、相手を恐れてしりごみすること、また、相手に一目置くことのたとえであろうと呟きながら旅館(ホテル)に帰り、甚だ以て快からず。 午餐(ひるめし)を喫(くい)畢(おわ)り後、去らば叔父の遺族が当時下谷のお多福横町に居るを訪ねんとて、旅館に備えたる東京方角案内と云う本にて塲所を調べたるに、昨夜(ゆうべ)ステーションで知れざりしも道理、この横町は明治廿六年に道路取広げと相なり、只今にては三等の大通り。 漸く尋ね当って問合すれば、清水が妻子は此処を引越して、今では入谷の朝顔園と云う花屋敷と熱海温泉の出張所との間なる裏長屋に住み、母子(おやこ)二人で幽(かすか)に其日を送って居るとのこと。 夫は気の毒千万、叔父は余り面白からぬ人でありしかど、叔母(叔父の妻)には子供の折に可愛がられた事もあった。 叔父が身代限りして後に失(な)くなった事なれば、跡に残って妻子は定めて難儀をする事であろうと、原(もと)より人情ぶかき信切ものゝ潔ゆえ、先から先へと捜して遂に尋ね当てて見たるに、思ったよりも猶(なお)ひどい暮し。 九尺二間の裏店住居(うらだなすまい)。 その有様を書綴らんは、クダクダしければ略して云わず。 凡(およ)そ貧乏世帯の最下等に見るもの一つとして、備らざる所なしと評して可なり。 まだ残暑の強き折なれど、東表西裏の田楽長屋、涼しい風と来たら一昨年(おととし)の七月に大南(おおみなみ、南風のことか)が吹た以来入った事は無いと云う向の処に、清水の後家お賢は鉄縁の眼鏡を掛けて頻(しきり)に麦藁真田(真田紐)を組み、娘の乙女は絹ハンケチーフの縫を一心にして居れり、是ぞ母子(おやこ)が其日を送る種とぞ知られる。 清水は、台所の傍(かたえ)なる三尺四方の土間が一尺ほどは糠味噌桶と割薪と雨戸に押領(おうりょう)せられ、お負けに上汐よろしくと云う下駄二足を脱ぎたれば、空地とては僅に方一尺八寸余と云う所に入りて、小声にて、御免なさいと音なえば、乙女は縫ものゝ針をやめ、ハイ誰君(どなた)で御座います。 一寸お尋ねしなすが、清水山四郎さまのお跡は此家(こちら)で御座いますか。 ハイ左様で御座いますが貴君(あなた)は。 私は潔で御座いますが叔母さまは、と問うを待たず、乙女はかなたを向いて、お母さん、アノ潔さんがお出で御座いますヨと、喜びて知らするを聞き、お賢は膝の上に並べて組かけたる麦藁を散らぬ様に、前垂を外づしては引つゝみ、立上りて潔を見て、オヤマー潔さん、ドウしてお出(いで)だ・・・・・・・・・・・よく此所(ここ)が知れましたね・・・・・・・・・・・・・昨夕(ゆうべ)洋行から、お帰りとエ・・・・・・・・・・・・・・マーお上りヨ、乙女やお母さんが常々(つねづね)話して聞かせた潔さんは此お方だヨ・・・・・・・・・・・・・・と喜びの余りにや話う詞(ことば)もあとや先、ただ先(さきだ)つものは涙なり。 清水は叔母の顔をツクヅクと見れば、年はまだ五十路(いそじ)を越したる計りなるに甚(いた)く衰え、昔の俤(おもかげ)は尽(ことごと)く消え失せて、浅ましき老婆とはなりぬ。 アヽ是も貧乏ゆえかと推察すれば、哀れにも亦痛わしヽ。 お賢は涙ながら清水に向い、潔さんマア聞ておくれよ、叔父さんは(即ち清水山四郎とてお賢の夫、潔が叔父なり)貴君(おまえさん)が洋行のお留守中であったが、丁度十年前、株券の相塲騒動で身代限になり、昨日までの暮しに引替て翌日(あくるひ)からは下谷お多福横町で、今は大道(だいどう)になって居る、アノ御徒町の大通りの新道(しんみち)に幽かな住居(すまい)に世間を狭く暮して、何処へも顔出しの出来ぬ様にお成りで、夫から体もめっきり弱って五年前の十一月八日に心臓病で失くなられました。 世が世なら葬式(おとむらい)も立派にする処だけれど、何を云うにも身代限の始末だから、其翌晩コッソリと谷中に葬りまして、アノ貴君(おまえ)さんのお父さんのお墓の側にある小さな石塔がそうで御座いますヨ。 そして極内(ごくない)の話だけれど叔父さんが夫でも人の名前にして仕舞って置た地面や公債が少々はあったので親子三人ぐらいは、どうやらこうやら食ていかれたので御座いましたが、ソレ貴君(おまえさん)も御存(ごぞんじ)の狡五ネー、慥(たし)か御洋行の時は、あの子(狡五)が十二で、此子(乙女)が四ツでした・・・・・・・・・・・・私には成さぬ中の義理ある子だから(前妻の子)、総領の事もあるし叔父さんがなくなった後は跡に立(たて)て、私は万事扣(ひか)え目にして居た処が、何が扨(さ)て二十二と云う若盛りで、夫は夫は怪しからぬ身持ち、私が度々意見しても馬の耳に念仏で、芥子(けし)程も聞入れず、地面も公債も一年ばかりの内に人手に渡し、住居も道具も八重に抵当に入れて、ひどい借金を仕ちらかし、揚句の果が一昨年の暮に逐電(かけおち)して往衛(ゆくえ)しれずサー。 借金取は方々から来て居催促(いさいそく)、其中には義理の悪いお金があるので、私は何もかも狡五の借金かたに引渡し、忘れもせぬが其年の師走の廿三日に着のみ着のまゝで娘の手を引き出入の米屋の世話で此所(ここ)へ引越しましたが、身に附たものは身体の外には何にも無いから母子(おやこ)二人で手内職をして其日をヤット過して居りますが、有り難い事に私も以前は病身がちであったが、貧乏になると気に励みが附て来たせいか、思の外丈夫に成り、マアお薬もめったに飲まぬ様になりました。 夫に娘が此通り精出してハンケチを縫ったりレースを組んだり仕て、とんだ稼ぎますので私が働かないでも食る丈(だけ)の事は有りますが、可愛そうに今年はモウ十八になりますが、三年このかた燻り切て表へは出ず、お爨どん(おさんどん、下女、台所仕事)を仕たり、味噌漉(みそこし)を下げて使にいったり、辛苦の仕通し、中にはアノ器量をコウして置くは惜しいものだ、旦那とりをさするか、柳橋にでも出したら、お前も楽が出来て宜(よ)かろうにと申す人もありますが、当人はたとい乞食見た様になっても其(そん)ナ恥かしい体になるは否(いや)だ、お母さん一人はどうかして貧乏なりにも私が稼いで食させるからと申しますので、私もソンナラそうと申して今日までは暮して居ましたが、実は貴君のお帰りを心待に待て居りました。 私はモウ先も無い身体だからどう成っても宜(よ)いが、娘だけはどうぞして人並にして遣りとう御座います。 潔さん、推察しておくれよと涙と鼻涕(はな)を啜りつゝいとも哀れな身の上ばなし。 清水は始終を打聞て、共に涙に暮れたりにけり。 娘の乙女は母が話の中にチョット表へ出で程なく帰りしが、近所で買って来た菓子を袋より出して、縁の剥げたる盆に載せ、番茶の煮花(にばな)を汲で清水が前へ差出し、貴君(あなた)、なんだか可笑な物で御座いますが、お一つお摘(つま)みなさいまし。 ソシテお母さん愚痴ばなしは大抵にお止(よし)なさいよ。 貴君(あなた)が御迷惑で入らっしゃるだろうから、ホヽヽヽヽ、モウお袋も此節は愚痴ばかり申して困ります。 ドウゾ御免あそばせと、涙を袖に押隠し無理に作った笑い顔、泣くに増したる思いなり。 清水は思わずも乙女の顔を打見るに、髪は油気も無き引っめの銀杏返し、邪見に結んで櫛さえ入れねど毛彩(づや)は飽まで黒くして、ふっさりと生え分て、揉上(もみあげ)から襟足の所は申分のない髪毛(かみのけ)、額の生え際は一たい濃き方なれど、いつが何年にも剃附けず、生れた侭なが却(かえっ)て天然(うぶ)にて一しおの愛嬌なり。 色は極て白きが上に、ほんのりと赤みが底の方に見え、眉はポーッと広く眉頭の方太くて眉尻に至りて細く、眼は黒目がちの二重まぶた、睫毛は濃くて長くはえたるにて、大きなる眼をば一層涼しく見せ、鼻筋は通りて、歯は水晶を並べたる様に麗しく、口元のキリット上ったるに薄き唇の紅なるは花にも喩がたし、丸顔で下豊(しもぶくれ)中肉中背、手のつまさきから足もとに至るまで、一点の申分ない美人。 もし美人の共進会があるならば、此人ならでは東京より出品する女性(にょしょう)はあるべからずと美術家も俗物も與(とも)に同論なるべし。 此の十五年来、西洋諸国の都にて美人の見飽(みあき)をしたる清水も、今この乙女が髪も結わず着物とては雑巾にても惜からぬ木綿中形の浴衣を着て、縄のようなる帯を締めても天性の美麗なるを見て、思わずも襟元からゾッとする様に覚え、加うるに叔母の物語にて孝心の次第を聞き、貴くもまた可愛(かわゆ)くて、あわれ是程の器量人柄を備えたる処女、高貴の奥方となしても不足なきものを斯(かか)る草屋(くさや)にうち棄て、賤(しず)の男が妻(め)にせんことの悔しさよ。 我も男子と生れたる冥加には宿の女房と定めたきものをと、此時よりして、清水は乙女を恋い初めたり。 稍々(やや)あって、清水はお賢に向い段々のお物語承って御気の毒至極、心労お察し申上げます。 併し人は七転び八起きと申せば、再び御運の開くる時節も御座ろう程に、左様にお気を揉ませ玉うナ。 及ばずながら私も帰京いたしたれば、力の届くだけは御相談に預かりましょう。 又乙女さんは私が為には従兄弟同士の間柄、どの様にも力に成りましょうから必ず御案じ成さいますなと、信切に言い慰めたるに、お賢は落(おつ)る涙を押し拭い。 潔さん、貴君(おまえさん)の御信切な御詞を力に致しますヨ、頼(たのみ)に思うは貴君(おまえさん)一人と繰返し繰返して頼むにぞ、乙女も傍より、潔さんどうぞ宜しう御願い申ますと、詞少なに挨拶したり。 清水は上衣(うわぎ)の隠しより紙入を取出し十円計(ばかり)の札を紙に包み、お賢の前に置き、叔母さん是は誠に失敬では御座いますは、お菓子料の印し御収め置き下さいまし。 実は乙女さんにも何か、お土産を持て参ろうかと存じましたが、永の道中の事で心に任せぬゆえ、斯(かく)の仕合(しあわせ)と当座の貢の心にて差出せば、お賢は押し返し、潔さん、お止(よし)よ。 貴君(おまえさん)だって旅から帰った計りで中々入用も多いのに余計の心配、おしで無い。 夫に私どもは困ると云ってもコンナに大層のお土産を貰う気は無いからお返し申ますと、貧乏はすれど流石に清水が叔母、きっぱりと押返し、乙女も共に断わったり。 併し十銭の小遣にも差支えて居る内幕は透き通って見えたれば、清水は笑ながら、何の叔母甥や従兄弟同士の中で、そんな他人行儀が入りましょうか、私が困る時には、又御無心に出ますから、叔母さん、マア取ってお置きなさいまし。 ソシテ此の残暑の酷い内は、日中には御内職を少し止めて、御身の御養生を成さったが宜(よ)う御座いましょう。 尤も御身上の事に付きましては少し考えた事も御座いますれば、何れ明日か明後日また参りましょう。 其中に御用もあれば、此処へ郵便を御遣し下さいましと、名刺(なふだ)の裏に鉛筆にて旅館の町名番地を記して、お賢に渡し暇乞して立ち出でたり。 お賢は乙女と共に清水が出行(いでゆく)を送りたるに、乙女は其姿が見えずなりても、猶暫しが間は茫然として門口(かどぐち)に彳(たたず)み、ニッコリとほゝ笑みたり。

 自分は文学のことは分らないが、場面描写、特に人物描写が長いのは、この時代の特徴の一つだろうか。 実は、この場面には、2ページに亘って挿絵が入っている。 前段の見せ場と云う事であろうか。 尚、この挿絵は、「近代デジタルライブラリー」で『もしや草紙』を検索し、本文の16コマ目で見ることが出来る。

Best regards
梶谷恭巨

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