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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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 桜痴居士著『もしや草紙』は、50回続く。 こればかりだと退屈する。 そこで、時々、別な資料についても採り上げてみよう。 今回は、新潟県長岡市に関係の深い、日本初の解剖学者・人類学者である「小金井良精」の母に関する資料を紹介する。 尚、小金井良精については、以前紹介したことがあるが、多少の説明を加える。 小金井良精の孫に当るのが、SF作家である星新一氏で、『祖父・小金井良精の記』という作品がある。 文中にあるように「米百俵」で有名な小林虎三郎は、伯父。 また、良精の後妻は、森鴎外の妹、文中の喜美子夫人。 長岡でも意外に知る人が少ないが、長谷川泰、石黒忠悳と並び、近代日本の医学界に多大な貢献をした人物である。 余談だが、喜美子との再縁を仲人するのは、森鴎外の上司であった石黒忠悳である。

書名: 『名士の父母』
著者: 安藤紫陽、箕輪撫鬣(むりょう、たてがみを撫でるの意)
発刊: 東京、文武堂
刊年: 明治36年
頁数: 152

九 小金井幸子
(医学博士小金井良精*氏の母)

 小金井博士が刀圭界*に於ける名声は夙(つと)に高く、其室喜美子夫人が閨秀作家として明治文壇に流麗なる才筆を揮えるも、既に世人の弘く熟知する処たり。 博士が母刀自(とじ)*幸子むしは、今猶お健康、若かりし頃に異ならず。 然かも閲歴中最も辛苦を重ねたる人なりとす。

(注)小金井良精の「良精」は、「よしきよ」あるいは「りょうせい」の何れも使われたようだ。
   刀圭界とは、刀圭が薬を盛る匙(さじ)であることから、医学界を意味する。
   刀自とは、老婦人に対する敬称。

 小金井家は越後長岡の藩にて、其遠祖は三河に出で、中頃徳川十七将の一たる牧野成定に仕い禄二百石を食(は)みしが、伝えて良精氏の先考・儀兵衛翁に至り、寺社奉行・町奉行・郡奉行・勘定頭等を勤めぬ。 幸子刀自は実に其配たりき、実家は同藩・小林氏、父は又兵衛とて文武兼備の聞え高く、加うるに兄・虎三郎*は佐久間象山の門下にて、吉田松陰と並び称されたる人なりしかば、刀自も又其流(そのながれ)を汲んで、夙に賢徳あり。 儀兵衛翁の許に嫁してよりも内助の功著しく、程なく六人の子女を挙げぬ。 良精氏は其次男なり。

(注)虎三郎とは、小林虎三郎のこと。 佐久間象山門下で、吉田松陰と併せ「二虎」と云われた。

 斯(かか)る中に、世は漸う騒がしく、慶応四年、大事端なく鳥羽伏見の戦闘より破るゝや、次(つい)で東北征討の大命下り、昨日の将軍、遂に朝敵と目さるゝに至りぬ。 是(ここ)に於いてか東北の諸藩悉く一致協力して薩長諸藩の軍と兵を交えて其長となり、屡々(しばしば)官軍の鋭鋒を挫き、驍名(ぎょうめい)大(おおい)に北越の地に振いしが、日に増し勢威赫々たる官軍には敵すべくもあらで、さしもに堅固なりし長岡城も敢なく敵の陥(おとしい)るゝ処となりぬ。 此時、儀兵衛翁は藩主を護りて外にありしが、刀自は子女を携えて、難を城外の僻境。 橡堀(とちほり)村*に避け、甞(かっ)て大方ならず世話したる村人某の家に入りぬ。

(注)橡堀村は、旧栃尾市、市町村合併で、現在は長岡市。 ただ、GoogleMapで調べたが、該当なしだった。

 さもあれ継之助は再び盛返して、到る処に敵を悩まし、長岡城の恢復(かいふく)を図りければ、諸所の小戦寸時(しばし)も止むなく、其隠家(かくれが)を忍出で、更に守門山の麓に遁れ林間の藁小屋にありて偶(わず)かに雨露を凌ぐの惨境に陥りしが、城頭の戦闘、日を追うて激烈を極め、砲声火光、日夜耳目を掠めければ、果(はて)は山中の露宿も夢結び難き事数日に及びぬ。 然も刀自は毅然として毫(ごう)も愁情なく、諄々(じゅんじゅん)子女を訓(おし)えて、非常の場合に処する覚悟を説く事、常と異らざりき。

 恰(あたか)も其折の事なりけり。 良精氏の兄・権三郎氏*は、其頃、僅に十一歳なりしが、一日渓流に出でて食器を洗い過って箸を失いしかど、元よりさして意に留むべき事にもあらねば、帰って此由、何気なく刀自に語りぬ。 其時、刀自は子女三人を膝下に招き、襟を正うして語るよう、今更其方(そち)の過失を責むるにあらねど、こは小事に似て決して小事と云うべくもあらず、昔時(せきじ)平氏の一族遁れて五家の山奥にありける頃、何ならぬ器物を水に流してゆくりなく敵に在所(ありか)をしられたる例(ためし)もあり、斯くて我等の難を此地に避くるも敵は既に近く此下流にあれば、彼の箸流れて不幸にも其手に落ちなば、五家の山の故事*は目の前、大事というは此事のみ。 御身等なお如何に幼しとも、弓矢執る家に人となり、他日、君家(くんか)に尽さんと思う志あらば、斯(かか)る事だに夢さら疎忽(ゆるがせ)に為(せ)ぬものとぞと、繰返し繰返し諭しけるとぞ。 斯る混乱の間にありて其児を思うの切なる余り、さまでの事まで能(よ)く心を止めたる刀自の用意は実に驚嘆の外ならずや。

(注)兄・権三郎は、自由民権運動家となり、後に代議士になっている。
   五家の山の故事とは、五箇山(富山県)あるいは五家の荘(熊本県)の何れかの平家伝説と思われる。

 当時、継之助の驍勇は其比なく頻(しきり)に敗卒を励まして、程なく長岡城を恢復しけるが、大廈(たいか)の倒れんとする時、一木の以て支えがたき譬(たとえ)にもれず、加うるに王師の勢威、日に熾(さかん)にして、城乗取りも束の間や、日ならずして城は再び官軍の有に帰し、継之助も遂に潔よき最後を遂げぬ。 勢已(すで)に斯の如くならば、流石雄藩の聞こえ高かりし長岡藩も、今は散々に蹂躙せられ、味方は身を置く処もなかりき。 是(ここ)に於てか、刀自は更に山中の隠家(かくれが)を後にして、会津に走り暫(しばら)く其処(そこ)に落着きしが、間もなく其処(そこ)も兵火の巷(ちまた)となりしより、再び出でて米沢に遁れ、転じて仙台に趣くに至りぬ。 其間の困苦は実に名状すべからざるものありしが、刀自は常に子女を励まして訓戒甚だ務めたりき。

 斯く兵乱鎮定後、儀兵衛翁は藩の少参事に任ぜられ、昔に変らぬ栄達を見んとせしが、盟友河井継之助の已(すで)に彼の世の人たる上は、要なき禄を貪(むさぼ)らんも心ならずとて、早くも致仕したりしが、重ね重ねの不幸さえ打続きしが上に、翁は病の為に一身思うが儘(まま)ならず、これより一家の経営は一に権三郎氏の手腕に俟(ま)つ事とはなりぬ。 良精氏が苦学は皆長兄が資を助くる処たりき。

 一度(ひとたび)、君家の没落の当り、頼みに思う夫には暫時(しばし)も身を寄する術(すべ)もなく、唯子女三人に事無からしめんと、或(あるい)は野に寝(い)ね山に伏し、落人(おちゅうど)の身の悲さは風の音にも心を止めて、幾百里の他郷へさすらいけん。 刀自が当時の辛労果して如何なりしぞ。 然も刀自は流石に武家の配たるに恥じず。 斯る間にありても、従容迫らず、心中自から余裕の存するありき。

 すみ棄て出行く庭に打靡き、誰まねくらむ、青柳の糸
 (すみすてて、いでゆくにわに、うちなびき、たれまねくらん、あおやぎのいと)
 夏草の繁みが中に交りても、色なつかしき、撫子のはな
 (なつくさの、しげみがなかに、まじりても、いろなつかしき、なでしこのはな)
 かきくらし袖の涙のふる里は、そなたとばかり、打眺めつゝ
 (かきくらし、そでのなみだの、ふるさとは、そなたとばかり、うちながめつつ)
 此秋はわきて露けし月見れば、いつも悲しき習ひなれども
 (このあきは、わきてつゆけし、つきみれば、いつもかなしき、ならいなれども)
 丸木舟よるべの岸に風たちて、漂ふ末やいづこなるらむ
 (まるきぶね、よるべのきしに、かぜたちて、ただようすえや、いずこなるらん)
 逢見ては嬉し悲しも忘られて、先さしぐむは涙なりけり
 (あいみえては、うれしかなしも、わすられて、まずさいぐむは、なみだなりけり)

 等の数首は、皆当時、事につけ折にふれての吟詠にて、斯る場合にありても猶嗜好の道を忘れざりし刀自の心の中こそ床しけれ。

 以上。

 尚、『名士と父母』には、この他、15名の父母が掲載されている。 小金井良精とも関係深い森鴎外の母・峰子の記事もあり、順次紹介する予定である。

Best regards
梶谷恭巨

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