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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第六回

 秋もはや過ぎて冬に向い、東京は流行社会にとっては多事の季節となりぬ。 高帽美髯連中の繁忙なる有様は申すも中々愚かなり。 ・・・・・・・・・・ヤー、先日は失敬、時に此間の天長節の夜会には、君は御見(おみえ)が無かった様だ・・・・・・・・・・ナニ、九時半から参って居たに、ドウシテ逢なかったろう・・・・・・・・・・君は大方スモーキンルームで骨牌(カード)に引掛り肝腎の舞踏には顔出(かおだし)を仕なかったに違いない・・・・・・・・・・・ドウしでドウして彼嬢につかまって、例の御高慢をうけて堪(たま)るものか・・・・・・・・・・・左様々々昨晩の濱矢良(ハマヤラ)伯の夜会は盛であったが、矢張り政治家連中が沢山で実に風流の気少なしサ・・・・・・・・・・・明晩の○○公使の舞踏会は賑かであろうヨ、君も案内を受たか子(ネ)・・・・・・・・・・・・三河台の令嬢とばかり踊て居ては宜しくないぜ、チット嗜み玉え・・・・・・・・・・・イヤ、思い出した思い出した、明日の午後は赤沙汰(アカサタ)侯爵夫人の接見日だ。 是に顔出しでも仕なかろうものなら大しくじりだぞ・・・・・・・・・・・否々(いやいや)夫よりゃ明日の午後(ひるご)は麻布苦刺部(くらぶ)で藍植(アイウエ)令嬢の独吟独奏がある。 否(いや)でも拝聴に罷出(まかりで)て、曲が畢(おわ)ると掌(てのひら)が痛くなるまで叩かねば成らぬぞ。 ヨシヨシ接見から苦刺部(くらぶ)へ廻ると仕ようが、一理半の道を二人引の人力で駈廻(かけまわ)るは恐入るぜ。 是が苦界(くがい)の勤めか子(ネ)・・・・・・・・・・・ソウソウ、来る月曜日の夜の集会は、今朝の新聞で見たが、差酢世(サシスセ)子爵の演説問題で党議の帰着を決する策であろうてナ。 此席には君は是非とも連ならねば成るまい・・・・・・・・・・ナンのナンの君の出身は政略(ポリチック)に関係があれど、僕なんぞは原来(がんらい)社交(ソシアル)から来たのだから貴婦人の御機嫌とりが第一だ・・・・・・・・・・・イヤイヤ、其方が余(よっ)ぽどつらいよ。 片言まじりの英語を聞たり調子はずれのピアノを面白い顔をして感服せねばならず「日本ではまだレージーを尊教しないで困ります」などゝ云う高慢を承るのは我慢も出来るが、ソレネ(と妙な手付で指を出し)例のニュブリッヂのスモール一件だろう、僕がソレ伯(カウント)と一所に向島の別荘に招(よば)れた時に来て居た事がカウンテスに知れて--------------ナニ僕が周旋では無いよ。 周旋は木挽町の鈴婆(マンマー)だネ、間違ては困るぜ--------------カウンテスが「妾(わたし)は何もかも知って居ますよ。 卿(あなた)、お隠し成さらずとも宜しいでは御座いませんか。 妾は卿のお話しは都(すべ)て信用いたしませぬ」と一本刺されて恟(びっく)りしたのサ。 到底カウントとカンテスの間に引(ひっ)ぱさまれては日清(にせい)両属と云う訳にはいかず、実に僕のヂプロマチストと雖(いえ)ども閉口千万サ・・・・・・・・・・・・怪(けし)からぬ事をの玉うな、中々僕輩が如き所には、お鉢は廻らないよ。 アレ程の事業が甘く往ったのだから極めて夫(そ)れ丈(だ)けの事は有ったろうが、下風(かふう)に立つものは紅葉館の御祝宴で御払い箱サ・・・・・・・・・・・と何の事だか其楽屋には分って居るならんが、門外漢には更に理会(りかい)し難き談話は、是れ流行社会到る処にて、清水が聞く所なり。 清水は見るに附け聞くに附け、扨(さて)も扨も浅間しき浮世の有様かな、純粋生活(ピュールライフ)はマダマダ日本だけには残って居ようと思ったが、此様子では、欧羅巴(ヨーロッパ)も跣(はだし)で駆出し、亜米利加(アメリカ)も甲(かぶと)を脱で降参するであろう。 併し世を挙て皆濁れりと云うでも無かろう。 其中には縦令(たとい)純白で無いまでも、責めては薄鼠色くらいの地(ところ)はあるべしと、相替らず社交の間を何地此地(あなたこなた)と吟(さまよ)いて日を送ったり。 去れども、清水が心掛けて求むる所は見当り難い捜しもの。 占者(うらないしゃ)に見てもろうたら、先ず知れぬと明らめなさい、併し永い中には見当るかも知れぬと判断する方もなるべし。

(注1)スモーキンルーム: 喫煙室
(注2)骨牌(カード): 明治20年頃からカードゲームが流行したようだ。 鹿鳴館時代、外国人が頻りに、カードゲームを教えようとしたらしい。 近代デジタルライブラリーに当時の遊戯などに関する文献がかなりある。 どんなゲームをしていたか興味が湧くが、今回は措くとしよう。
(注3)三河台の令嬢: 麻布三河台。 明治5年頃から、高級住宅街になったようだ。
(注4)麻布苦刺部(くらぶ): 字からして、上流社会を皮肉ったものだろう。
(注5)レージー: エレジーのことか?
(注6)カウンテス: 伯爵夫人、カウントは伯爵
(注7)木挽町の鈴婆(マンマー): 詳細は不明だが、木挽町は寛永の頃から芝居町として賑わっていたが、天保12年頃から芝居小屋が移転した為、寂れていたようだ。 そこで、福地桜痴が、今で言う地域活性化ではないが、歌舞伎座の建設を計画し、明治21年8月31日、その認可が下りた。 11月、舞台開きを計画したが、近くの新富座との関係で色々有った様だが、井上馨の仲介などで、落着。 この経緯に関しては、国会図書館の『写真の中の明治・大正』の「明治時代の芝居と劇場(二)」に詳しい。 以下は、そのURL:
 
http://www.ndl.go.jp/scenery/column/theatrical_2.html
 そこで、『もしや草紙』の発刊年月日、明治21年11月18日から、芝居小屋の呼込みの事ではないかと推測するが、ご存知の方があれば、お知らせ願いたい。
(注8)紅葉館: 明治14年に芝の紅葉山に開業した和風高級料亭。 因みに、会員は限定300名、会費は10円だった。

 斯くて清水は鬱々として楽まず。 其身を処するの方向に屈託し、其後は余り外出もせざりしが、ある日、銀座あたりを遊歩したるに、一書肆(しょし)の店に処世真理と題したる一小冊の招牌(びら)を見、その書は如何(いくら)だと其値を問えば、定価は五十銭、お負申して四十銭、よろしい一冊買いましょう、四十銭で処世の真理が分り、是から先き四十年、生きれば一年が一銭とは安いもの、併し五分の利息を半年前に元金に加えて勘定したら幾許(いくら)になるであろうと詰らぬ事を考えながら其書を携えて旅館に帰り、四十銭の真理はどんな真理ならんと表紙を押し開いて四五葉読み下し、ハヽー此の先生は、韓図(カント)の流派を酌み、傍ら倍因(ページ)の糟粕(そうはく)を嘗むる哲学家と見えるナ、ヘン、こんな僻説(へきせつ)は感心が出来ぬ、・・・・・・・・ナル程これは御尤(ごもっとも)だと独り語して、評しては読み、読みては評したるが、去るにしても此論未だ以て処世の真理と名つくるの価値なしと雖(いえ)ども自(おのずか)ら一見識の凡庸に超出するものあるぞ、心憎き著者は誰やらん。 表題には烏有仙史とあれども、其実名知らまほしと巻末を見れば、著作者は、東京府平民、夢野実(まこと)とは記名して其宿所までも明細に記(しる)してありぬ。 扨(さて)は夢野の著述であったか、夢野は二十年前、高等中学にて師兄の礼を以て交りを結びし先輩、其後、西洋で遭った時には、頻(しきり)に哲学を修めて居られたが、程なく日本に帰りしと聞き、其後の様子を知らざりしに、今は哲学家に成って、真理を講じて居ると見えるナ、且つ著述の言論では奉職在官でも無い様だが、己れの楽みとする所にて、純粋の生活を成とは羨しい事である。 殊に此の夢野は我に比ぶれば十ばかり年長(としおさ)なれば、学問実験ともに我に優れ、日本社会の研究は最も行届いて居るであろう。 明なば早速に音信(おとずれ)て教を受け、処世の相談をも成して見んと、俄に飛立つ如き思を做(な)し夜の明くるを俟(まっ)て、平素に無き早起をして朝餐(あさめし)ソコソコに調(したた)め旅館を出で小梅の里なる夢野が許にと趣きたり。

(注1)韓図(カント)の流派: イマニュエル・カントドイツ観念論哲学派。
(注2)糟粕(そうはく)を嘗むる: 先人の残したものをまねるだけで、創意や進歩が見られない。 因みに、「糟粕」は酒かすの意味。
(注3)僻説: 偏った考え方。
(注4)烏有仙史: 「烏有」は、「いずくんぞあらん」すなわち「何も無い」と意味。 『漢書』に烏有先生という架空の人物があり、「仙史」は「仙人の歴史あるいは史(ふみ)、あるいは、それを司る役人」、そこで、何にも無い詰らない物書きとでも言う意味のペンネーム。 夢野実のこと。
(注5)実験: 以前にも出てきたが、ここで謂う「実験」とは、実際の経験のこと。

 小梅の里と云えば、意気な所の様なれど、同じ小梅でもグッと引舟の通に寄っては、買物は不自由なり、出入りは悪し、別荘でも建て偶(たま)に往けば、格別のお金があるなら、先ず常住にはせぬ方なり。 夫を承知で此所(ここ)に寓居を卜(ぼく)したる夢野実は、所謂風流でもなく、洒落でも無く、詮方なしの詫住居なるべし。 ソウとは知らず清水は、夢野が住居は大廈高堂には非ざるべきも、柴門(さいもん)深く扃(とざ、かんぬき)して大樹屋(だいじゅおく)を蔽い風塵を謝絶して清閑を独占つるの家なるべしと思い、其番地を捜したれど、是が夢野の閑居と覚しき所も無し。 漸々(ようよう)の事にて、荒ものと駄菓子を商える家の老婆に問えば、夢野さんかね、ソレ、向うに見ゆる竹の垣根について右に廻ると小さな橋が御座います。 其橋を渡って左の横町に入ると角から二軒目が夢野さんですと教えられ、尋ね当って見れば、表の囲は建仁寺の毀(こ)われたるを縄にて古板を縛って補い、門とは仮の名、まことは傾いたる柱に雨戸を一枚釣りたるを片折戸にし其柱から筋違(すじかえ)に庭の柿の木の股に物干竿を渡し、只今もし傭(やとい)の老婆が洗濯せしと見えて、いかがの品を乾し、出入の邪魔になるも更に頓着せざるか如し。 清水は、まさかに此家では有るまいと思えども、論より証拠は門柱(かどばしら)に打ったる表札年数の風雨に晒されて、板は自然の洗い出しと成ったれど、墨で書きたる所だけは自から凸(たか)く成って夢野実の三字はアリアリと現われてありぬ。

(注1)意気: 粋の意味
(注2)卜したる: 占って選び定めたの意。
(注3)大廈高堂: 大きなて高い建物。 大廈高楼とも。
(注4)柴門・・・・・: 芭蕉の「柴の戸」の「芝の戸に、茶の木の葉掻く、嵐かな」を意識しての文章か?

 以上、第六回終了

 この『もしや草紙』が発刊された明治21年(1888年)という年は、国会の開設・憲法の制定など近代立憲君主国家成立への胎動が始まった時期に当る。 参議制が廃され枢密院が開設された。 また、清国との戦争を想定した軍制改革が始まるのもこの時期である。 亦、新潟県(柏崎・長岡)に関係深い日本石油会社が設立されたのも、この年の5月10日だった。

Best regards
梶谷恭巨

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