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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第七回

 庭は本来自然をかた取って作るもののならば、草も勝手に生えよ葉も随意に落ちよ、荒るゝと云うは人間の私評、これが即ち自然なり。 我は其の自然を愛する者にこそあんなれと云う見識にや、凡そ五坪半ばかりの庭は荒に荒はてゝ、霜枯の為に一層の穢(きた)なさを増したり。 其昔置並べたる庭石も沢庵押しに使用せられたるか、歯の脱(ぬけ)たる如くにて枯艸(かれくさ)の中に埋(うずも)れ、三年前に御影が他へ嫁入した跡に直ったる根府川石の履脱(くつぬぎ)のみぞ独り傲然として、竹椽(ちくえん)の傾(かたぶ)きたる前に横たわったる。 但し其側に立たる芝山形の手水鉢(ちょうずばち)は此庭に惜き品の様に見ゆれども、実は焼石にて、お負に響(ひび)が入たる故に、敢て二君に仕えずして此家に留存(りゅうぞん)して居るが、其中の水は神武紀元二千五百十八年の夏に水池を洗いし以来は水が無くなれば、其上に差して今日に及びたるに付き、池中は碧苔蒼然として、恰も深淵を見るが如き相を顕わし、孑孑(ぼうふり)其外の水蟲(みずむし)は茲(ここ)に居を卜してより正しく十余代の世系(せいけい)を伝えたるべし。 此庭を面にしたる南向きの座敷書斎寝室(ねま)兼帯の一間は六畳敷に一間の床と一間の押入とを付けたり。 其普請は初め此家を造営せし時に、瓦、中塗、畳、建具まで入れて一坪十円で、大工が請負たる普請。 これが殆ど二十年に近く成ったる家なれば、良しや其間に手入をなしたりとて、其見るに足らざるは、勿論なるに況(いわん)や今の主人が引越たるこのかた已(すで)に向(なり)なんとすれども、曾(かっ)て一度の手入をも成さず。 毎朝(まいちょう)の掃除さえ煩(うる)さしとて、下女の干渉を謝絶するをの多(おおき)に於てや、床の間と云うは名のみにて壁の中央には山岡鉄舟が書いたる懐素風の草書もて、癡人猶斟野塘水と云う七字を黒々とものしたるが、紙も表装も燻(ふすぼ)り布袋の腹見た様に反(そり)たるが少々まがってぶら下ったるのみ。 其外は和漢西洋の古本やら雑誌新聞の読かけ乃至菓子打(かしおり)の明き箱茶盆等を秩序も無く置き並たる自然の物置とは変じたり。 幸に押入は古くして且つ破れたりと雖ども、二枚の唐紙にて立て切たれば、其中は見えねども、嘸(さぞ)じじむさからんとは推し量られて余あり。 主人は、年の頃四十三四と覚しくて、眉太く眼鋭(まなこする)どく、鼻も口と共に大くて、頬骨の高く顕われたる痩顔(やせがお)、髪の毛は三銭を奮発して刈込たるより既に三ヶ月余を経過したれば、後の毛はゾロゾロと襟の中に入(はい)る程に延び、前の方はぶらぶらと額に落ち掛りて、余程気味わるそうなれども、当人に取ては、更に然らずと見えて平気なり。 髭は頬から鼻の下あごに掛けて一面に濃く、然も不揃(ふぞろい)に生えたるが、誰も払いてが無い証拠には、お髭の塵は言うに及ばず今朝きこしめしたる味噌汁も干乾びて平張附(へばりつ)き鼻涕(はな)をかみたる紙屑も少々は其痕跡を止めたり。 午後五時ばかんなる琉球紬の小袖の上に袖口のきれたる黒魚子(くろなのこ)の綿入羽織を着し、机の上は書ものにて余地なき迄に埋めたるを掻退(かきの)け聊(いささ)かばかりの空地(くうち)を作り、其上に草稿紙を広げ、頻(しきり)に考えては頻に書て居たるが、今しも客が尋ね来りしに付き、机を少々側(わき)に押よせ、今戸焼の手あぶりを主客の間に出だし、心うち解(とけ)て物語してありぬ。 此の主人は即ち烏有仙史夢野実にて、客と云うは清水潔なり。

(注1)御影が他へ嫁入した跡に直ったる根府川石の履脱(くつぬぎ): 御影は「御影石」のことで、根府川石(ねぶかわいし)は、小田原の根府川で採れる箱根溶岩石のこと。 高価な御影石の履脱が、安い根府川石に替ったということ。

(注2)竹椽: 杉材を芯材とし、仕上材に竹を用いた襖椽。
(注3)二君に仕えず云々: 史記の「中心は二君に仕えず、貞女は二夫に見(まみ)えず」から、手水鉢は替っていないということ。

(注4)神武紀元二千五百十八年: 西暦1858年、安政5年。 この年、日米通称条約を締結。
(注5)孑孑(ぼうふり): ぼうふらのこと。
(注6)山岡鉄舟(1836~1888): 幕臣、後に明治天皇の侍従。 飛騨高山代官の子として生まれ、剣と禅を学び、「剣禅一如」に開眼、一刀正伝無刀流を開く。 勝海舟、義兄である高橋泥舟と共に「幕末の三舟」といわれた。 また、「槍の泥舟、剣の鉄舟」とも云われる。 三舟の三幅対を見たことがあるが、印象としては、鉄舟の書が最も印象に残った。 詳しく知るには、南條範夫著『山岡鉄舟』がお奨め。

(注7)懐素風: 懐素は中国・唐代の書家・僧。 奇人として有名で、酔うと家中所構わず書きまくったと云う。
(注8)癡人猶斟野塘水: 碧巖録からの引用。 但し、下記の通り、「斟、戽(くむ)」と「野、夜」の字が異なる。 尚、詳細は省略するが、『碧眼録』の引用の箇所は、東京八王子の鶴壽山松門寺のホームページを参照した。

 URLは次の通り: http://www.shomonji.or.jp/

第七則 法眼、慧超に答う
 垂示に云く、聲前の一句は、千聖も傳えず。未だ曾て親しく覲ざれば、大千を隔つるが如し。設使聲前に辨得して、天下の人の舌頭を截斷するも、亦た未だ是れ性燥の漢にあらず。 所以に道う、天も蓋う能わず、地も載する能はずと。空も容るる能わず、日月も照す能わずと。佛無き處に獨り尊と稱して、始めて較うこと些子なり。 其れ或は未だ然らずんば、一毫頭上に透得し、大光明を放って、七縱八横、法に於て自在自由にして、手に信せて拈じ來るに、不是あること無し。且く道え、箇の什麼を得てか、此の如く奇特たる。復た云く、大衆會すや。 從前の汗馬人の識る無し、只だ重ねて蓋代の功を論ぜんことを要す。 今の事は且く致く、雪竇の公案、又た作麼生。 下文を看取よ。
 擧す。僧、法眼に問う、慧超、和尚に咨う、如何なるか是れ佛。法眼云く、汝は是れ慧超。

  江國春風吹不起、
  鷓鴣啼在深花裏。
  三級浪高魚化龍、
  癡人猶戽夜塘水。
 江國の春風吹き起らず、鷓鴣(しゃこ)啼いて深花裏に在り。三級の浪高くして魚は龍と化せるに、癡人(ちじん)猶お戽(く)む夜塘の水を。

 ナニ僕の境界が羨(うらやま)しいと、何の羨しい事があろうゾ、世の中には成まじきものは詩人、画師、音律師、哲学者、小説家なりと先哲が云われたが、実に其通り、僕もフトした事から此の魔界に迷い入り、或時は一部の小説を草して、時勢を嘲り、或時は一篇の詩賦を作って世上を諷し、以て得意なりとはすれども、ヨクヨク考えて見れば社会の為には何の利益も無く、自分に取っては世間に悪く思わるゝだけが損で、ヤット一膳のお粥に露命を繋ぐだけが儲け、差引て見たら損が残って儲なしであろう。 所謂る聖世(せいせい)の廃物とは僕が事で御座る。 清水君よ、君は抑(そもそ)も此の世の中に何の不平あって故(こと)されに此の廃物の仲間に入らんと望み玉うか。 ヨシ玉えヨシ玉え、今日為す事あるの時に生れ、為すべきの学芸を修め、又為すべきの才能を備えながら尽(ことごと)く之を棄て畸人(きじん)にならうとは、実に以ての外の料見違い。 君には不似合な御分別じゃ・・・・・・・成ほど社会の顕象(ありさま)が否(いや)でたまらぬと、夫はその筈さ、此の日本今日の社会は清水が為にも作らねば夢野が為にも作ったるの非ず、自然の発達で、こう成ったものだものを、御同様の気に入ろうが入るまいが、何と仕方が有るものかヨ。 君もし一人の力を以て此自然に敵対(てきた)い、社会の顕象(げんしょう)を破壊して、新(あらた)に君が望の如き社会を創始し得べしと信じ玉はば、風潮に逆行するも可なりサ。 それが人間業(わざ)にて出来ぬと悟ったならば、風潮に順行すべしと云ったからって何もかも世間のする通りにせよ、善悪是非を擇(えら)ぶに及ばずと云う訳では無い。 風に逆わず潮に激せずして、楫(かじ)を取り帆を操り、終には、たれが目ざす所の彼岸(かのきし)に着して目的を達するが、是れ社会の海上を航する趣意ならずや。 然るを己が思う通りに社会を仕て見たい。 夫(それ)が出来ずば社会を出離したいと云う一刀両断の決心は愉快には似たれども、極端から極端へ奔(はし)る気違沙汰。 君の決心とも覚え申さぬ。 短気は損気で無いかいナとは、即ち此事でござる・・・・・・・左様・・・・・・奮発して立身の策を建て玉え。 森羅万象みな是れ君が為には立身の地なり・・・・・・官員、夫も宜かろう・・・・・・商人、よかろう・・・・・・製造工業、同くよかろう・・・・・・何でも君が是はと思う事に其身を置て御覧(ごろう)じろ。 案ずるより産(うむ)は安い。 岡目で見た様ナ物では無いものダ。 一徹に否と思えば否だが、其否ナ中にも亦た面白い事がある故に、苦中の楽み楽中の苦みと云うでは無いか。 君が如きは彼(か)の食わず嫌いと云うもの。 苟(いやい)くも清水君とも云わるゝ大丈夫が、ソウ社会の顕象に怖れては往かぬ。 千辛万苦を凌ぎ通す気力あらば、社会の顕象、何の怖るゝ所あらん。 須(すべか)らく勇進すべしと、懇々説得せられて、清水は大に失望したるが、ヨクヨク考え見れば、ナルほど、先生の高説の如く到底超然として社会に出陣する事が出来ずは、社 ○これ以降、本文のページで、55ページから58ページまでが欠落している。

 流石に福地源一郎・桜痴である。 博覧強記というか、諧謔の中に豊かな知識が鏤(ちりば)められ、文章に奥行きを感じる。 もっとも、こうした知識は、当時としては常識の範囲だったのかもしれない。 しかし、神武紀元で、安政5年の日米通商条約を引き合いに出し、文明開化を皮肉っている辺り、実に愉快である。 因みに、神武紀元の採用は、明治5年の太政官布告で始まり、翌年・明治6年元旦(1873)から、西暦と併用されている。 このこともまた、明治21年(47歳)の視点から考えれば、不可解と感じていたのかもしれない。 『もしや草紙』を採り上げたのは、日清・日露戦争までの明治の世相の変化を知る為であったが、今にして、これは正解であったと感じている。

 残念ながら、先にも書いたように、第七回の後段と第八回の前段の4ページが欠落している。 欠落後の部分を拾い読みすると、面白そうなことが書かれているのだが、それは、第八回の後段欠落後の部分を配信する時に、改めて書くことにしたい。

Best regards
梶谷恭巨


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