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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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『况翁閑話』(8)-記事容易ならず 附如燕

 老人の話は、拙(マズ)くとも趣味多きものあり、若年者の話は、巧みにても趣味少きが常なり、何となれば記憶したることは一部を忘れても甚だしく事実を誤らざれども、経験なき想像は時として途方もなき誤謬を語ることあればなり、然れども其話を聞く者も、また経験なき者なるときは、此誤謬を悟らず趣味を解せざることあり、例えば近頃の小説に所謂実験なき人の物したるを見るに、幕府の末造の記事に志士が当局の高き有司を訪(オトナ)い、時事に就て議論を上下し、双方意気激し、互に傍の刀を引寄せ、鯉口を緩(クツ)ろげたりと記し、挿画にも其状を図するものあり、今の人は之を読みて或は然らんと信ず、然れども苟(イヤシ)くも其頃士人邸内の礼法を知る者は、忽(タチマ)ち其の無稽なるを笑う、其故は、志士彼の浪人諸生輩が旗本の有司の家を訪う時は、刀は玄関にて脱し、脇差は使者の間にて脱し、応接の室には、同輩にあらざれば脇差をさした侭とか坐傍に一刀だも有るべき筈無し、此類の事甚だ多し、故に若き人など近時にても自己の実験実視せざる事を、語(カタリ)もし書きもするには、余程注意せぬと、一点の誤にて全部の価値を下げる事あり、併し此の経験とか実験とかは一朝一夕に得らるゝものにあらず、是れ老人にも亦値打ある所なり。 所謂講談師の講談を聞くに、殿中の事抔(ナド)は如燕(ジョエン)のが一番よろしかった、如燕は若い時に上野の坊さんで、殿中へも出る事があるし、諸侯の邸中へも出入し、諸侯にも侍した事がある、此実験があるからだ。

 評曰、僅に数冊の書を読み僅に一二の談を聞き直ちに筆を執て冊子を作る者、世間小説家と称する輩中まゝ之あり、蓋(ケダ)し先生の冷眼、此に透り、此小言を吐るゝならん。

(注1)趣味: おもしろみ、おもむき (漢語林)
(注2)実験: 実地の経験 (漢語林)
(注3)無稽: よりどころがない、でたらめ、「荒唐無稽」 (漢語林)
(注4)有司: 役人、官吏 (漢語林)
(注5)所謂講談師: 「所謂(イワユル)」を冠して「講談師」と言っている所から、况翁は「講釈師」という言い方に馴染んでいたのではないだろうか。 篠田鉱造著『明治百話』(上)、当時、桃川如燕と並んで二枚看板と称された松林伯円の事が「松林伯円の一生」と題して書かれている。 ここには、「講釈師」とある。 况翁の時代(幕末か明治初年)、江戸あるいは東京では、「講釈師」が一般的な呼称であったことが窺える。 明治中期に講談が黄金期を迎えるそうだから、その頃には、「講談師」という呼称が一般に広がっていたのかも知れない。 因みに、松林伯円は、維新前後、元下館藩(現・茨城県筑西市)の藩士の家に生まれ、後に、井伊掃部頭(カモンノカミ)の下級家臣・若林氏に養子となり、若林駒次郎と称していたが、小間物屋の娘婿になり、講釈好きが高じて宝井馬琴の父・琴調に入門し、調林と名乗っていたようである。
(注6)如燕(ジョエン): 初代・桃川如燕、本名・杉浦要助、天保3年(1832)6月-明治31年(1898)2月28日、江戸根岸宮永町に生まれる。 後、二代目・燕国を襲名した。 あるいは、二代目・如燕、本名・齋藤嘉吉、慶応元年(1866)-昭和4年(1929)9月30日、落語家一家(麗々亭柳橋)の次男に生まれ、落語から講談に転じた。 文脈から推測するに、この場合は、初代・如燕と思われる。

 「最近の若いもんは」という言葉が思い浮かぶ。 世の中が急変すると、得てして世代間の乖離が始まり、頂点に達すると断絶が生じる。 何時の時代も同じなのだろう。 同じものに、別の名前をつける。 あれもこれも変えなきゃならん。 何でもかんでも、カタカナ表現記。 それでいて本来の意味は何処やら。 マニフェストと公約の違い、何処が違うのかとは、庶民の真意。 それでも、流行だから「マニフェスト」なのだ。 とあま、そんな会話が聞こえてくる昨今である。

 ところで、この本が出版されたのが明治34年11月、この年、况翁は、57歳なのである。 石黒忠悳は、明治27年(1894)6月5日付で、日清戦争の勃発に伴い大本営野戦衛生長官、同29年4月1日、復員、同30年9月28日より休職、同34年4月17日、予備役編入。 この年の1月頃、東京市の助役・吉田弘蔵(第三代助役、市長は初代・松田秀雄、議長は星亨)から、懸案事項であった「日比谷公園」の造園に対するアドバイスを求められ、その後、この計画に参画している。 当時の年齢からすると、どうなのだろう。 一線は引いたものの、况翁の経歴からすれば、まだまだ働き盛りである。 しかも、昭和16年4月26日、97歳で没することを考えると、この達観は、何処から来たのだろう。 考えさせられてしまう。

 因みに、前後するのだが、明治34年2月に『况翁叢話』が「民友社」からも出版されている。 本来なら、こちらを先にすべきだったのだが、最初、博文館の大橋佐平との関係を調べていたので、前後した次第です。 また、同様の出版物としては、大正13年8月に「実業之日本社」から出版された『耄録』がある。 現在のスピードでは、何処まで掲載できるか未定だが、いずれ、これらについても『資料編』に収録したい。

Best regards
梶谷恭巨

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