江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 『况翁閑話』(11)-トンチンカンの考を悔ゆ 余歳三十八年に一女を、四十年に一男を挙ぐ、女は孝と名づけ、男は忠篤と名づく、余常に兵士の身体に心を用い、其徴集して新兵に仕込を見るに、幼少より常に座して育てられし故に、ズボンを穿せて直立さすれば、脚の湾曲せざる者鮮(スクナ)し、依って我見は幼時より常に椅子に倚(ヨ)らいめ、座せしめしとなし、然るに明治廿五年忠篤九才の時、携えて帰省したるに、郷里の豪商諸氏に招かれ、珍客に扱われ、緞子の蒲団を敷き、二の膳附き袴羽織の給仕という御馳走に逢うたるとき、忠篤は余の次席に就きて、止を得ず正座せしめしに、暫時にして足痺れ膝痛みて食事どころか座に堪ず、頗る困難せしめたり、又孝女に音楽を教うるに、三味線だの、琴だのというものよりも、西洋音楽のピアノこそ律正しく音繁く、都での音楽の基なれば、之を学び居れば何でも出来るとの考にて、よき師家に就けて今に学ばしむ、然るによくよく考え見れば、我輩の娘だから、武官ならば中少尉、又は二三等軍医、武官ならざれば、卒業したての学士輩にでも嫁せしめねばならぬ、併し中少尉二三等軍医の分限にては、其家は広くも八畳六畳三畳位の家だ、そこで八畳六畳位の家に、ピアノを持込だら、夫婦にて寝る所がなくなる、そうかというて、広く家に住われぬ、此に於て年来学び習いたる、ピアノは持て嫁することが出来ぬ、そこで男子にも女子にも、此トンチンカンの考は、皆大はずれに外れて、今に後悔します、さて是は小事だから、後悔位で済むが、天下を料理する政事とか、又は経済とか、国家の大計は誰が後悔ばかりでは済ぬ、故に一朝一旦の思付にて新らしき事を始めると、如此結果となるなり、慎まざるべけんや。 評曰、先生先ず自踏の過を述て、以て結論を確定す、世間政を為す者、此過失をせざる者稀なり、之を大にしては伊藤侯の憲法、山田伯の司法制度、山縣侯の村町自治制、其名其体皆共に善美、而して其国民に及す所の真利恵沢は果して如何ぞや、況や各省の法規例則をや、此編大政事家の規箴(キシン)とすべし。 (注)忠篤: 石黒忠悳の長男、明治17年(1884)1月9日-昭和35年(1960)3月10日、農商務省官僚・政治家、「農政の神様」と称せられた。 新渡戸稲造・内村鑑三の門下生といわれ、新渡戸稲造宅に柳田国男や牧口常三郎らと共に「郷土社」を開催する。 芹沢光治良の『人間の運命』に登場する黒石課長は、石黒忠篤がモデルと云われる。 ところで、この『人間の運命』は、全14巻に及び長編、古本を探して見るが、プレミアが付いている。 今のところ、ここまで手を広げると、カバー仕切れ無くなりそうだ。 どこか、勝海舟の『氷川清談』を思わせる書き様である。 幕末、下級幕臣から身を起した人々に通じるのではないだろうか。 先日、NHKの歴史番組で、「勝海舟」を取り上げていた。 勝海舟の文明批判に、「トンチンカンの考を悔ゆ」と相通じるものを垣間見た。 石黒は、少年時代、父親の御供で上野の東照宮に参拝し、道途、川路聖謨(トシアキラ)の話しなどを聞いている。 その事が、後年の生き方にも影響しているのではないだろうか。 越後の片貝村池津でも、「俺は、江戸っ子だ」という意識があったのかもしれない。 勤皇攘夷を志しながら、戊辰戦争の時期には、師である松本良順(単に、順)に従って、佐幕軍の軍医をする訳でもなし、故郷に帰っても、傍観者のように見える。 親友である関矢孫左衛門のように、一隊を作り、積極的に官軍に参加しているようには思えないのである。 土壇場で、心象風景としての「江戸っ子」と「尊王攘夷」の葛藤があったのではないだろうか。 この辺りにも、石黒忠悳のその後の生き様が窺えるようだ。 Best regards PR |
カウンター
カレンダー
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(04/15)
(01/29)
(01/26)
(01/20)
(01/14)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
梶谷恭巨
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
読書
ブログ内検索
最古記事
(04/08)
(04/08)
(04/08)
(04/09)
(04/10) |