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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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『况翁閑話』(7)-他人の思うにまかす

 明治三十年四月三日朝雨ふり十時頃止みたれども、道頗る泥濘なり、此日両国中村楼に書画骨董の展観会あり、往て見んとて高足駄(タカゲタ)を履き出掛たるに、両国橋手前より数々知人に逢えり、其一人の曰(イワク)比泥路梅荘に山花余香を尋ねらるゝか、答曰(コタエテイワク)然り、次に逢うたる一人曰此雨中本所正午の茶醼(チャエン、茶会)に赴かるゝか、答曰然り、次に逢いし一人は曰雨中青柳楼の百美人を見らるゝか、答曰然り(此日青柳楼に百美人会開かれありたり)、最終に中村楼より七八間手前にて逢うたる一人は曰中村楼の展観会に赴かるゝか、答曰真(マサ)に然り、さて僅に四丁許(バカリ)の所にて四人の知人に逢うて四種の判断を受け、其的中したるは最終の一人のみなり、一人には風流人と見られ、人には茶人と見られ、又一人には粋客と見らる、若し十人二十人に逢はば十種二十種別々に見らるべし、世事総て此の如し、他人が如彼(アア)思うとか、又は如此(コウ)思うとか心配するは、真に無益の苦労というべし、此の如き事に苦労せずして、一に己の所信を行うこそ肝要なれ。

 評曰、先生他の毀誉を以て意に介する人にあらず、他人愚と喚(ヨ)ぶ答曰愚也、人賢と喚ぶ答曰賢、而して其盛名と共に之に其心を疑う者、亦まゝあり、高名を誹讒(ヒザン)するは下人の通情、況んや先生他人の踏まざる高きを踏む人、其心を知る者鮮(スクナ)し、宜(ヨロシキ)なる哉此言。

(注1)中村楼: 明治中期頃、再開された美術品の取引によく使われた料亭(旧・伊勢平楼)。 後、売りに出された時、東京美術倶楽部が、美術商専用の建物として買取り、明治40年4月、株式会社東京美術倶楽部が設立された。 (『東京横浜電話交換局加入者名簿』によれば、明治28年現在本所区元町一、電話758番)
(注2)梅荘: 詳細不明。 ご存知の方があれば、お教え頂きたい。
(注3)本所正午の茶醼(チャエン): 本所松坂町の吉良の茶会(忠臣蔵)に因んで、宗偏流第八代宗家・山田宗有宗が宗偏流普及の為に始めたと云う「義士茶会」のことか。 因みに、山田宗有は、通称・寅次郎、オスマントルコとの民間交流の開祖とも云うべき人物で、実業界にも手腕を揮い、後の王子製紙を創った。
(注4)青柳楼: 前掲『東京横浜電話交換局加入者名簿』には、記載がない。 ただ、調べてみると、浮世絵に「青柳楼」が出てくる。 文久三年(1863)に国貞作『青柳楼上小てる』、慶応三年(1867)に国貞作『青柳楼梅吉』などある(東京都立図書館データベース)。 また、インターネット上に、旧会津藩士が数百人集って親睦会を開いたという記事があるが、詳細不明。
(注5)百美人会: 明治24年(1891)7月、浅草「凌雲閣」(浅草十二階)で「百美人」という有名芸妓百人の写真を集めた展示会が開催された。 その後、同様の催事が流行したそうだが、「青柳楼の百美人会」に関しては不詳。 ご存知の方があれば、お教え頂きたい。

 况翁・石黒忠悳の人となりをよく顕わしている。 翁の自伝『懐旧九十年』によれば、両親が質実剛健を絵に描いたような人で、一人息子である况翁の武士としての教育には、既に廃れようとしていた武士道の何たるかを髣髴さえるものがある。 しかも、父を早くに亡くし、良妻賢母の鑑のような母親に育てられるが、その母も14歳の時に他界。 そうした家庭環境と境遇があった所為か、幼少から独立不羈の人。 例えば、母の没後、信州中之条の叔父の家にあった頃、思い立って一人江戸に登ると云い、数両の旅費を持ち出かけたのは良いが、追分の宿で、知合った勤皇の志士・大島信夫と意気投合し、誘われるままに京に上り、揚句の果ては、幕吏に追われるなど、とても15歳とは思われない行動が見える。 時代が前後するが、父の没後、当時としても早めの元服をし、手代見習いとして出仕している時、江戸の大暴風が起こり、出勤の途中、森下町(家屋材料商の多い町)で、屋根板や屋根釘を沢山並べているのを見て、屋根釘の需要を直感し、手持ちの金の内一朱をはたいて、屋根釘を買うなど、13歳とは思えない発想と行動力。 もっとも、この事が、武士としてあるまじき事と母親の勘気に触れ、あわや勘当。 この母の教訓で、「一生金銭利欲のことには立ちさわらん」と誓い、事実、事業など営利の事には一切拘らない姿勢を貫いている。

 况翁・石黒忠悳の人生には、幼少から何処か飄々とした雰囲気がある。 強いて言えば、いたずらっ子が、そのまま大人になったのではないかと思うほどだ。 だから、『懐旧九十年』を読んでも、立身出生し、栄華を極めた他の同時代人の自伝には無い爽やかささえ感じる。 私なんぞが言う事でもないが、学者や技術者の手本とは、当に石黒忠悳ではないかと考えるくらいだ。 『懐旧九十年』は、その意味でも、お奨めの一冊である。

Best regards
梶谷恭巨

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1947/05/18
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