江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 『况翁閑話』(9)-東西風俗の別 西洋諸国と我東洋とは、風俗習慣異なるもの多し、近く例すれば、東邦にては食するに語らずとて、食事の時は無言をよしとす、西洋にては、食卓に向おては絶間なく、隣椅子又は向椅子の人と談話するを礼とし、黙して食えば実に無愛想の人となす、又室内の飾の如きは、あらゆる飾品を陳列して並べ立るを常とす、我邦にては、床間にも、掛物、香炉、花瓶位とし、他は何も飾らず、但し今日の置物幅物は、明日替え、明後日は又替え、三日つづけて来る人は、三日毎に別の品を見せ、別の品を飾付け、三日ながら眼を新にするをよしとす、名は忘れたが、英国の婦人某の日本紀行にある、日本に行き、日光に遊びし時、上等の日本旅店に投宿し、上等の室を好みて入りたるに、室内に一幅のかけ物と、其前に一輪の椿花を生けた花瓶而巳(ノミ)にて、何一つ無く、誠に幽寥を窮めて、恰(アタカ)もあき家に宿りし心地がした、然るに其隣室も之に属しありて、其室にて衣かえ化粧をなし、此幽寥の室は、客を誘引(サソ)うか、又は独座日を消する室なるが、一日二日と立ちて見ると、此幽寥の妙味を覚え来り、外出して帰り来ると、折々床の間の置物がかわり、花生の花や花瓶もかわり、遂に得もいわれぬ妙意が生じ、日光を出でて横浜の欧風ホテルに着せし後、ホテルの上等室なるいろいろの粧飾がいかにもうるさく覚え、却て日光旅宿の幽寥の室を思い出した、今にも其味を記憶して居ると、此所が東西各々の特色だ、併し今日の我邦は昔日と違うから、日本の風を失ずして彼の善き風を取るが必要だ、西洋食卓で無言で居るは困るし、日本坐敷へ靴で上り込れても困る、此所が肝腎の考え所だ。 政事にも、軍事にも、将(ハタ、マ)た商工業にも、此コツ合が、肝腎の工風所だよ。 評曰、先生元来韵致高し、東西の風俗を見るに他の凡眼と異り、結果時勢の変に応ずる真致を説得て切なり矣。 (注)英国の婦人某の日本紀行: 英国の婦人某とは、イザベラ・L・バード(Isabella Lucy Bird)のこと。 1831年10月15日、北ヨークシャー州ヨークの北西21kmの小さな町・バローブリッジ(Boroughbridge)に、英国国教会の聖職者の女として生れ、1904年10月7日、スコットランドのエディンバラで没した。 子供頃は病弱だったようだが、心因性のものであったようだ。 原因は家庭環境にあったのか、彼女の本当の望は旅行あるいは道の世界への憧れであった。 1854年、父から100ポンドを貰い、それを使い果たすまでという約束でアメリカの親戚を尋ねた。 帰国後、またしても旅行に対する憧れがストレスとなり、悶々とする生活を送っていたが、1856年、「The Englishwoman in America」を出版した。 以後、カナダやスコットランドなど国内旅行をしていたが、1868年、母親の死後、姉妹であるヘンリエッタ(Henrietta、愛称Henny)と暮すが、その生活スタイルに堪えられず、1872年、先ずオーストラリア、ハワイへ旅行、ハワイではマウラロアに登り、女王エンマを訪問した。 その後、米国に渡り、コロラド州へ、1873年にはロッキー山脈800マイルの縦断旅行を行った。 この時に姉妹ヘンリエッタへの手紙が「Leisure Hour」という雑誌に掲載され、後に「A Lafy's Life in the Rocky Mountines」として出版された。 一旦、エディンバラに帰り、医師・ジョン・ビショップに求婚されるが、旅行への思い忘れられず、日本、中国、ベトナム、シンガポール、マレーシアなど旅する。 1880年、ヘンリエッタがチフスで死亡、最愛の姉妹を失った彼女はビショップと結婚したが、1886年、夫ビショップが死去、健康状態が悪化したが、本来の旅行愛好家としての本能か、還暦近くになって、医学を学び、健康回復のため宣教師としてインドに赴く。 1889年、インド、その後、チベット、ペルシャ、クルディスタン、トルコを訪問、翌年には、英国の軍隊と共に、ロンドのヘンリー・ウエルカム社と提携して調査の傍ら、リボルバーと医薬品を携帯し、バクダッドからテヘランを旅行、1892年には、女性として初めて王立地理協会のメンバーとなり、1897年には、最大の旅となる中国の揚子江、漢江沿いに旅行、更に韓国へも足を伸ばした。 最晩年には、更にモロッコを旅行し、ベルベル人のスルタンから贈られた黒毛のスタリオン(雄馬)に梯子を掛けて乗るなど、人々を驚かせたが、73歳の誕生日を間近にした1904年10月7日、エディンバラで没した。 この回については特にコメントも無いのだが、寧ろ、况翁・石黒忠悳が、バードの『Unbeaten Tracks in Japn(日本奥地紀行)』を読んでいた、あるいは知っていた事に興味が湧く。 ただ、明治11年12月18日、19日の読売新聞にバードの事が紹介されているので、(但し、誤報が多いとか)、その事が記憶にあったのかもしれない。 また、『Unbeaten Tracks in Japn(日本奥地紀行)』の出版に当っては、ダーウィンの勧めがあったそうだ。 これ等のことについては、弘前大学の『弘前大学大学院地域社会研究科年報(2004年)』に掲載された、齋藤捷一・高畑美代子両氏の論文「記録・文献で辿る(読む)イザベラ・バードの『日本奥地紀行』-矢立峠、碇ヶ関と碇ヶ関の人々-」及び研究ノート「イザベラ・バードの描いた碇ヶ関と子どもと遊び」に詳しい。 序でに、蝦夷地なども旅行していることから、日本初の人類学者(解剖学者)である小金井良精との関係の有無を調べていたが、それらしき記述は見つからなかった。 しかし、このイザベラ・バードという人物には驚いてしまう。 何歳の頃は不明だが、肖像画を見ると、意志の強そうな中々の美人である。 そのバイタリティを肖像からも窺えて、とても心因性とは言え病弱とは思えない。 足跡を見れば、インディー・ジョーンズの女性版が出来そうである。 映画になったことは無いようだが、1982年、劇作家キャリル・チャーチルが、『The Top Girls』という演劇で、彼女のキャラクタを採用しているようだ。 この方面には疎いので、何ともコメントの仕様がないが、尚更に興味が湧くのも事実である。 尚、私事だが、来週から入院する。 インターネットが使えればよいのだが、さてどうなる事やら。 よって、暫らく休刊する事になりそうである。 御容赦。 Best regards PR |
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