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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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 さて、今回は、『况翁閑話』を採り上げる。 というのも、桜痴居士の『もしや草紙』が長丁場になりそうだし、眼の具合が悪く、長文を見るのが困難な始末だ。 以下、原文。 尚、凡例に関しては、以前と同じである。

 縁なき者は度し難しとはよくいうたもので、此方でどんなにやきやき思うたとて、先方に夫を受ける素がなければ、決して此方にて思う如くには行かぬ。 此に一つの面白い話がある。 亡友原坦山が、甞て小田原在の大雄山道隆様の別当となりて、若干月居て、終に止めて帰りて後ち一日尋ね来りし故に、其別当勤務中の事など尋ねしに、大寺の住職というものは、随分窮屈で、俗な事も多いが、或時駕籠に乗り本共立てにて小田原市街を通りしに、三四人の書生一群が来かかり、其一人が曰く、死人が駕籠で来るとささやきし故に、此奴我を死人と思うかとて、駕籠の中にて高々と咳ばらいをせしに、其者更に曰く、死人だと思うたら肺病人だと、そこで尚々いまいましくなり、我強健なる様を知らしめんと駕籠の窓より健腕を出して示せしに、今度は更に曰く、肺病人ではない狂人だ狂人だと、於此如何にも不平極まれども致すべきなく、腕を収めて過ぎたとて哄笑せり。 昔時高僧貴人等は必ず駕籠にて行きし時の事を親しく睹(ミ)ざる人々が、如此思わるるは決して無理とはいうべからず。 余は坦山翁の不平に興せずして、書生連の判断に賛成するなり。

 評曰、先生少壯の時より時事に熱心にして、往々危を蹈(フ)み自ら実験せられたる事、頗る多し。 坦山老師の此話、先生の聞に入て初めて世を警するの談となる。 此に揚げられて、遂に其妙味を世に頒(ワカ)つ。 坦山師泉下必ず先生に謝さるべきを侑(ユウ、勧めるの意)す。

(注1)原坦山: 文政2年(1819)10月18日-明治25年(1892)7月27日、磐城国平の人、平藩士新井勇輔の長男、名を良作、諱(イミナ)を覚仙、号を鶴巣と云う。 江戸に出て、初め神林清助に易を学び、後に昌平黌(天保4年、15歳)、更に天保11年(1840)多紀安叔に漢方医学を学ぶ。 20歳の時、出家して浅草総泉寺の栄禅につき得度し、更に、宇治の佛徳山興聖寺(曹洞宗最初の寺院)の回天慧杲(越後西頚城郡の人)に印可受け、文久2年(1862)茨城県結城市の雲龍山長徳院の住職、京都白川の心照寺(?)住職となるが、明治5年(1872)教部省教導職少教正の時、出版法違反で、免職、僧籍剥奪、その後、明治12年(1879)東京帝国大学文科大学哲学科印度哲学の初代講師となり、『大乗起信論』を講義する。
 『東京帝国大学一覧』によると、明治20-21年(第二冊)まで記載があるので、八あるいは九年間講師を務めたようだ。 因みに、同一覧は明治19年から始まる。 また、印度哲学講師の時代、後に東洋大学を開学する井上円了(現長岡市越路町来迎寺、真宗大谷派慈光寺)が在籍している。 因みに、井上円了の卒業年次は、明治18年である。
 僧籍復帰(復帰の時期不詳)、明治13年から明治16年まで、小田原の最乗寺の独住第二世、明治18年、帝国学士院会員、明治24年、第四代曹洞宗大学林学監、明治25年(1892)7月27日没、享年74歳。
 著書: 『鶴巣集』、『首楞厳経講義(シュリョウゴンキョウコウギ)』、『心性実験録』、『禅学心性実験録』、『大乗起信論』など。
(注2)小田原在の大雄山道隆様の別当: 調べた結果、大雄山最乗寺の道隆宗穏ではないかと考えたが、確証がない。 即ち、乗国寺年表の安政四年の項に、「道隆宗穏が大雄山最乗寺輪番住職として十三年間務める」(『大雄山史』)とあるのだが、安政四年という時期に問題がある。 そこで、大雄山最乗寺にメールで問合せしたところ、次のような回答が即刻帰ってきた。 「大雄山道隆→大雄山道了の間違いではないかとのことです」、「明治13年~16年に独住第2世として勤められています」と。 また、山梨県北杜市小淵沢町の円通寺・阿部顕瑞老師が、最乗寺の顧問であるそうで、詳細は確認して欲しいとのこと。 曹洞宗の組織、位階、職責など全く知らないので、「別当」なる職責が如何なるものか、調べる必要を感じている。 尚、明治までは、輪番制があったそうだが、明治後、輪番制が廃止され(完全かどうかは不詳)、独住制になった。
(注3)大雄山道隆様について: 最乗寺顧問・円通寺の阿部顕瑞老師に連絡が取れ、FAXで質問状を出したところ、早速、回答の電話があった。 矢張り、道隆ではなく、「道了」とのこと。 岩波の広辞苑にには、「道了薩埵(サッタ): 室町時代の曹洞宗の僧。 字は妙覚。 生国・俗姓未詳。 相模最乗寺の開山・了庵の弟子となり、1411年(応永18年)同寺守護の大願を起こし、天狗となって昇天したので、その時の姿を写し、堂を建てて祀り、山門の守護神としたという」とある。 老師の話によると、曹洞宗の僧というより、寧ろ修験者とのこと。 現在は、宗派に係りなく、広く庶民に進行されているとの事。
(注4)別当について: 仏神混淆の時代、寺社の守護神の社務を司る僧、明治3年1月3日、大教宣布の詔勅→仏神分離→廃仏毀釈、以降、廃止された。
(注5)阿部顕瑞師略歴: 大正7年、新潟県新発田に生まれる。 7ヶ月の未熟児のため、母上が「命が助かれば十歳で必ず出家させると」祈願されたことから、昭和3年小学校3年生の時、菩提寺の禅定寺で出家、名を顕瑞と改名。 加治尋常高等小学校を卒業後、新潟県の雲洞庵認可禅林(四年制)を卒業、樺太の曹洞宗両大本山別院(楠渓寺)の布教師補、昭和14年曹洞宗布教総監部書記、昭和17年、東京の宗務院に勤務、曹洞宗報国会書記、同18年9月、新潟県神照山宝岩寺住職、同年12月、新潟県庁内仏教会書記、昭和19年6月結婚、3日後、臨時召集令により東部23部隊に入隊、昭和19年8月18日、シンガポール南方軍に向う途中のバシー海峡で乗船の啻亜(シア)丸が魚雷攻撃により撃沈、1250人中約1000人が戦死したが、18時間漂流後、救助された。 その後も2回海中に没し、最期にレイテ島に残ったのは、4人だったそうだ。 同20年2月頃、米軍捕虜になり、同年12月復員。 同21年1月に新潟県仏教会書記に復職、昭和32年3月、最乗寺及び東京別院を経て、40余年、現在、斎場算顧問。 (以上は、最乗寺寺報から抜粋。) 何とも凄まじい人生である。 新潟の曹洞宗の事情、原坦山に関する逸話など聞いたのだが、突然の電話だったので、メモも侭ならず、現在、記憶を整理中だ。 原坦山について書く機会に、聞き知った逸話など紹介したい。

 原坦山と謂う人は、実に興味深い人物である。 例えば、或時、或山中で「正光真人」という神仙に遭い、仙訣を授かり、「耳根円通法」という長寿健康法というか、神仙の奥儀を究め、『禅学心性実験録』を顕わしたとか、奇言奇行の多かった人のようで、多くの逸話が残っている。 原湛山については、そんな訳で、また別項を設けたい。

 また、石黒忠悳の原坦山評、単純に受け取ってよいものかどうか。 禅の素養がないので何とも釈然としない。 因みに、况翁・石黒忠悳は、文中しばしば、「安心立命」と謂う言葉を使っているところから、日蓮宗の信徒ではないだろうか。

Best regards
梶谷恭巨

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