江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 さて、今回は、『况翁閑話』を採り上げる。 というのも、桜痴居士の『もしや草紙』が長丁場になりそうだし、眼の具合が悪く、長文を見るのが困難な始末だ。 以下、原文。 尚、凡例に関しては、以前と同じである。 縁なき者は度し難しとはよくいうたもので、此方でどんなにやきやき思うたとて、先方に夫を受ける素がなければ、決して此方にて思う如くには行かぬ。 此に一つの面白い話がある。 亡友原坦山が、甞て小田原在の大雄山道隆様の別当となりて、若干月居て、終に止めて帰りて後ち一日尋ね来りし故に、其別当勤務中の事など尋ねしに、大寺の住職というものは、随分窮屈で、俗な事も多いが、或時駕籠に乗り本共立てにて小田原市街を通りしに、三四人の書生一群が来かかり、其一人が曰く、死人が駕籠で来るとささやきし故に、此奴我を死人と思うかとて、駕籠の中にて高々と咳ばらいをせしに、其者更に曰く、死人だと思うたら肺病人だと、そこで尚々いまいましくなり、我強健なる様を知らしめんと駕籠の窓より健腕を出して示せしに、今度は更に曰く、肺病人ではない狂人だ狂人だと、於此如何にも不平極まれども致すべきなく、腕を収めて過ぎたとて哄笑せり。 昔時高僧貴人等は必ず駕籠にて行きし時の事を親しく睹(ミ)ざる人々が、如此思わるるは決して無理とはいうべからず。 余は坦山翁の不平に興せずして、書生連の判断に賛成するなり。 評曰、先生少壯の時より時事に熱心にして、往々危を蹈(フ)み自ら実験せられたる事、頗る多し。 坦山老師の此話、先生の聞に入て初めて世を警するの談となる。 此に揚げられて、遂に其妙味を世に頒(ワカ)つ。 坦山師泉下必ず先生に謝さるべきを侑(ユウ、勧めるの意)す。 (注1)原坦山: 文政2年(1819)10月18日-明治25年(1892)7月27日、磐城国平の人、平藩士新井勇輔の長男、名を良作、諱(イミナ)を覚仙、号を鶴巣と云う。 江戸に出て、初め神林清助に易を学び、後に昌平黌(天保4年、15歳)、更に天保11年(1840)多紀安叔に漢方医学を学ぶ。 20歳の時、出家して浅草総泉寺の栄禅につき得度し、更に、宇治の佛徳山興聖寺(曹洞宗最初の寺院)の回天慧杲(越後西頚城郡の人)に印可受け、文久2年(1862)茨城県結城市の雲龍山長徳院の住職、京都白川の心照寺(?)住職となるが、明治5年(1872)教部省教導職少教正の時、出版法違反で、免職、僧籍剥奪、その後、明治12年(1879)東京帝国大学文科大学哲学科印度哲学の初代講師となり、『大乗起信論』を講義する。 原坦山と謂う人は、実に興味深い人物である。 例えば、或時、或山中で「正光真人」という神仙に遭い、仙訣を授かり、「耳根円通法」という長寿健康法というか、神仙の奥儀を究め、『禅学心性実験録』を顕わしたとか、奇言奇行の多かった人のようで、多くの逸話が残っている。 原湛山については、そんな訳で、また別項を設けたい。 Best regards PR |
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