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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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『况翁閑話』(5)-徒歩時としては馬車よりも早し

 昨夜、紅葉館の同県人集会より徒歩して帰り、西の久保通りにかゝると、後から馬丁の懸声をかけるから、路傍に避けると、何人だか知らぬが、二匹引の馬車にて勢よく駆来りて追のけ、遥か先きへ走り行いた、すると暫くして、今度は向から勢よく二疋引の馬車が来た、見ると暫く前(サ)き向うへ行た馬車だ、是は先へ行て用を済して帰りて来たのか、夫にはあまり早いとよくよく前途を見れば、遥に先き赤きランプがつるしありて、馬車留があるのだ、此方は馬車に別れ、ポツポツ徒歩して虎の門の通りへ出ると、又二疋引の馬車が脇から勢よく掛声をして来た、又々路傍によりて傍観すると、又先刻の馬車だ、是は馬車が向き逢うて引返して、更に二疋引の馬車の通る脇道を通りて、此に来りし故に、余が徒歩にてひろい歩行にに来りしよりも、後れて此に来りたのだが、さて世の中には如此事が随分多い、馬車なれば必らず早いとも極められぬ、此道筋は徒歩でなければ通られぬ、此道筋は馬車で差支なく通れると云う事を見定めて後ち、或は徒歩とし、或は馬車とする事が肝要だ、然るに往々道途の撰定を忽(ユルガ)せにして、つッかけ二疋馬車にて出掛け、車留めに逢うて引返すものはまだよいが、車を返して回らすことも出来ぬ所まで進みて、終には車を馬よりときて、ようように返すに至る輩あり、心すべきなり。
 評曰、全篇老子より転化し来りて卑近の実例を示さる善論と謂うべし。

(注1)紅葉館: 明治14年(1881)、芝の紅葉山に開業した会員制高級和風サロン。 開業当初、会員は限定300人で、会費10円を出資。 明治25年以降、一般にも開放されたが、一般には敷居に高い高級料亭であった。 ここで「同県人(新潟県人)の集まりがあったとあるが、恐らく、博文館の大橋佐平も出席していたのではあるまいか。 因みに、尾崎紅葉の『金色夜叉』は、博文館の二代目・大橋新太郎と尾崎紅葉の友人・巌田小波が、紅葉館の女中「お須磨」を争った事に由来するようである。 また、尾崎紅葉の「紅葉」は、この紅葉館からとったものとか。 意外なところに意外な関係が在るものである。
(注2)馬丁: 「ベットウ」と読むようである。 篠田鉱造著の『明治百話(上)』の「明治名物御所の馬丁」に、「べっとう」というルビがふられている。 また、当時の「馬丁」は、「ヤーハアイ」と声を掛け、通行人、荷車や荷馬車、人力車などの交通整理をしていた。 昔の仲間(チュウゲン)のようなもので、粋を競ったり、あるいは、虎の威を借る狐の如き観があったそうだ。 この他に、同書下巻に、「唐人馬丁の元祖」という節があり、明治維新前後の「馬丁」の様子が詳しく書かれている。
(注3)二匹(疋)引の馬車: 映画やTVドラマなどで、明治時代の馬車事情の一端を知ることが出来るが、意外に、日本の馬車に関する文献が少ない。 先に揚げた『明治百話』で、ある程度のことを知ることが出来るが、さて具体的にとなると、不明な点が多い。 ご存知の方があれば、ご教授願いたい。
(注4)全篇老子より転化: これを寓話として考え、『老子』にその類型がないかと捜してみた。 それこそ、『老子』全篇に通じるところもあるのだが、もしかすると、これではと思うのが、『老子』第五十三章である。 それを書き下し文と口語訳で引用する。 以下、小川環樹・本田済監修『鑑賞・中国の古典④』の野村茂夫著『老子・荘子』による。
 「我をして介然と知(ツカサド)ること有らしめば、大道を行うに、唯だ施(シ)のみ是れ畏(オソ)る。 大道は甚だ夷(タイラ)なれど、而(シカ)も民は徑(ケイ、こみち)を好む。 朝(チョウ)は甚だ除(オサ)められたるに、田は甚だ蕪(ア)れ、倉あ甚だ虚しきに、文綵(ブンサイ、サイはあやぎぬ)を服し、利剣を帯び、飲食に厭(ア)き、財貨余り有り。 是れを盗の夸(オゴ)りと謂う。 道に非(アラ)ざるかな。」
 以下、口語訳。
 「もし私に大いに政治をさせたならば、大道に従った(無為の)政治を行うであろうが、その際にはただ(無為に反する小手先の)施策をすることだけを畏れるのだ。 (無為の)大道ははなはだ平坦で(その政治は容易で)あるが、人々はとかく横道にそれたがる。 (今の政治を見るに)朝廷(の建物)ははなはだ立派であるが、田畑は荒れほうだい、穀物倉は空っぽ、(それなのに君主は)美々しい服飾を身にまとい、鋭利な剣を帯び、飲み食いは腹一杯、財産はあり余るほど。 これを(人民から)盗んでぜいたくをするというのだ。 道に外れているよ。」

 今回は、一見、当時の風物詩と取れるのだが、そこは况翁、流石に奥が深い。 「評」がなければ、『老子』が背景にあることを知り得なかっただろう。 こうした文章を読んで、その背景まで思い浮かべる事が出来るのは、読者に共通の素養があるということに他ならない。 幼年期に於ける「漢学」が、その素養の基盤をなしている。 「漢文・漢学」がどうこうという積りはないが、共通の知識的基盤が、漫画だというはどうだろう。 何だか寂しさを感じる。 出版業が低迷する、否、それどころか衰退している現状の要因には、初等教育に於ける知識的共通基盤の欠落があるのではないだろうか。 誰だったか失念したが、幼年期・少年期は記憶の時代であり、その後に、記憶した知識を道具に、自己の思考を展開していくのが、教育の本筋だと書いた人がいた。

 閉じこもって唯思考するということはありえない。 人とのコミュニケーションが在ってこそ、思考が成り立つのであり、その両者を分離する事は出来ないものだ。 そうすると、共通の知識的基盤が必要である。 それが無ければ、会話自体が成立しない。 意思の疎通などある訳がないのである。

 親子の会話が無いと云う。 それもその筈、科学的知識ならいざ知らず、時代の変遷があるとはいえ、親が習った事と子供たちが習う事が、これ程解離していたのでは、親子の会話が成立しないのも当然ではないか。 否、寧ろ親の方が子供に合わせるのが現状であるらしい。 NHKのBSでは、今週、一連のガンダム特集を放送する。 一世代上の私自身、ガンダムを知らない訳ではない。 最初に放送された時、面白いと感じたのも事実である。 しかし、ガンダムが親と子との共通の話題になるとは予想さえしなかった。 これも今の世相かと諦め半分。 ただ、反面、太宰治がブームだと云う。 さて、このご時勢、どう観ればよいのだろう。

 余談だが、韓国TVドラマブームが依然として根強い。 衛星放送では、韓流ドラマのオンパレードである。 ただ、時代物、しかも大河ドラマが増えているように思える。 時代は、高句麗・新羅・百済の三国時代から中世統一王朝まで。 こうしたブームが背景にあるのか、漢字表記が見直されているそうだ。 詳しいことは知らないが、ハングルが発明された以降も、日本同様にハングル漢字入り混じり文が近年まで続いていたそうだ。 正史としての歴史書となると、殆んどが漢文である。 歴史が民族主義の根底にあるとすれば、その歴史書が読めないでは済まされない。 TV大河ドラマが先で、漢字・漢文の見直しが後なのか、あるいはその逆なのかは知らないが、これも矢張り韓国のご時勢なのだろうか。

 出典を探すのに、『老子』をザット読み直してみた。 記憶力が衰えたのか、何度も読んでいるはずなのに、文章が思い出せない。 数年前から、悪筆を直そうと、写経ならぬ写本も時として行い、記憶を維持しようとするのだが、蟷螂の斧。 まあ、それでも、先の引用を直に見つけることが出来たのは幸いだ。 それは措くとして、読み直してみると、今の世相に当てはまるところが多いのに、改めて驚いた。 人のする事、当に二千年も一昔どころか、事物を置き換えれば、余り変ったところがないのである。

 序でに、少々視点を変えて、共通基盤としての科学面に触れると、どうも数式が浮かんで、とっつき難い。 ところが、最近、『A World Without Time - The Forgotten Legacy of Gödel and Einstein』(Palle Yourgrau, 2005)を読むと、「ウイーン学団(Viener Circle)」を介しての、ゲーデル、アインシュタイン、ウィットゲンシュタイン、マッハなどの交流関係が興味深く紹介されている。 師弟・友人・夫婦関係(好悪の関係)、性癖、嗜好など、メンバーの人間的側面が、学術的関係と共に紹介されているのである。 こうなると、全く見方が変ってくる。 それに、何と言っても、彼らの共通基盤を知ることが出来るのである。 それが単に数学とか物理学とかだけではないところが面白い(勿論、それが主なのだが)。 詳細は省くが、興味ある人にはお勧めの一冊である。

Best regards
梶谷恭巨

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 さて、今回は、『况翁閑話』を採り上げる。 というのも、桜痴居士の『もしや草紙』が長丁場になりそうだし、眼の具合が悪く、長文を見るのが困難な始末だ。 以下、原文。 尚、凡例に関しては、以前と同じである。

 縁なき者は度し難しとはよくいうたもので、此方でどんなにやきやき思うたとて、先方に夫を受ける素がなければ、決して此方にて思う如くには行かぬ。 此に一つの面白い話がある。 亡友原坦山が、甞て小田原在の大雄山道隆様の別当となりて、若干月居て、終に止めて帰りて後ち一日尋ね来りし故に、其別当勤務中の事など尋ねしに、大寺の住職というものは、随分窮屈で、俗な事も多いが、或時駕籠に乗り本共立てにて小田原市街を通りしに、三四人の書生一群が来かかり、其一人が曰く、死人が駕籠で来るとささやきし故に、此奴我を死人と思うかとて、駕籠の中にて高々と咳ばらいをせしに、其者更に曰く、死人だと思うたら肺病人だと、そこで尚々いまいましくなり、我強健なる様を知らしめんと駕籠の窓より健腕を出して示せしに、今度は更に曰く、肺病人ではない狂人だ狂人だと、於此如何にも不平極まれども致すべきなく、腕を収めて過ぎたとて哄笑せり。 昔時高僧貴人等は必ず駕籠にて行きし時の事を親しく睹(ミ)ざる人々が、如此思わるるは決して無理とはいうべからず。 余は坦山翁の不平に興せずして、書生連の判断に賛成するなり。

 評曰、先生少壯の時より時事に熱心にして、往々危を蹈(フ)み自ら実験せられたる事、頗る多し。 坦山老師の此話、先生の聞に入て初めて世を警するの談となる。 此に揚げられて、遂に其妙味を世に頒(ワカ)つ。 坦山師泉下必ず先生に謝さるべきを侑(ユウ、勧めるの意)す。

(注1)原坦山: 文政2年(1819)10月18日-明治25年(1892)7月27日、磐城国平の人、平藩士新井勇輔の長男、名を良作、諱(イミナ)を覚仙、号を鶴巣と云う。 江戸に出て、初め神林清助に易を学び、後に昌平黌(天保4年、15歳)、更に天保11年(1840)多紀安叔に漢方医学を学ぶ。 20歳の時、出家して浅草総泉寺の栄禅につき得度し、更に、宇治の佛徳山興聖寺(曹洞宗最初の寺院)の回天慧杲(越後西頚城郡の人)に印可受け、文久2年(1862)茨城県結城市の雲龍山長徳院の住職、京都白川の心照寺(?)住職となるが、明治5年(1872)教部省教導職少教正の時、出版法違反で、免職、僧籍剥奪、その後、明治12年(1879)東京帝国大学文科大学哲学科印度哲学の初代講師となり、『大乗起信論』を講義する。
 『東京帝国大学一覧』によると、明治20-21年(第二冊)まで記載があるので、八あるいは九年間講師を務めたようだ。 因みに、同一覧は明治19年から始まる。 また、印度哲学講師の時代、後に東洋大学を開学する井上円了(現長岡市越路町来迎寺、真宗大谷派慈光寺)が在籍している。 因みに、井上円了の卒業年次は、明治18年である。
 僧籍復帰(復帰の時期不詳)、明治13年から明治16年まで、小田原の最乗寺の独住第二世、明治18年、帝国学士院会員、明治24年、第四代曹洞宗大学林学監、明治25年(1892)7月27日没、享年74歳。
 著書: 『鶴巣集』、『首楞厳経講義(シュリョウゴンキョウコウギ)』、『心性実験録』、『禅学心性実験録』、『大乗起信論』など。
(注2)小田原在の大雄山道隆様の別当: 調べた結果、大雄山最乗寺の道隆宗穏ではないかと考えたが、確証がない。 即ち、乗国寺年表の安政四年の項に、「道隆宗穏が大雄山最乗寺輪番住職として十三年間務める」(『大雄山史』)とあるのだが、安政四年という時期に問題がある。 そこで、大雄山最乗寺にメールで問合せしたところ、次のような回答が即刻帰ってきた。 「大雄山道隆→大雄山道了の間違いではないかとのことです」、「明治13年~16年に独住第2世として勤められています」と。 また、山梨県北杜市小淵沢町の円通寺・阿部顕瑞老師が、最乗寺の顧問であるそうで、詳細は確認して欲しいとのこと。 曹洞宗の組織、位階、職責など全く知らないので、「別当」なる職責が如何なるものか、調べる必要を感じている。 尚、明治までは、輪番制があったそうだが、明治後、輪番制が廃止され(完全かどうかは不詳)、独住制になった。
(注3)大雄山道隆様について: 最乗寺顧問・円通寺の阿部顕瑞老師に連絡が取れ、FAXで質問状を出したところ、早速、回答の電話があった。 矢張り、道隆ではなく、「道了」とのこと。 岩波の広辞苑にには、「道了薩埵(サッタ): 室町時代の曹洞宗の僧。 字は妙覚。 生国・俗姓未詳。 相模最乗寺の開山・了庵の弟子となり、1411年(応永18年)同寺守護の大願を起こし、天狗となって昇天したので、その時の姿を写し、堂を建てて祀り、山門の守護神としたという」とある。 老師の話によると、曹洞宗の僧というより、寧ろ修験者とのこと。 現在は、宗派に係りなく、広く庶民に進行されているとの事。
(注4)別当について: 仏神混淆の時代、寺社の守護神の社務を司る僧、明治3年1月3日、大教宣布の詔勅→仏神分離→廃仏毀釈、以降、廃止された。
(注5)阿部顕瑞師略歴: 大正7年、新潟県新発田に生まれる。 7ヶ月の未熟児のため、母上が「命が助かれば十歳で必ず出家させると」祈願されたことから、昭和3年小学校3年生の時、菩提寺の禅定寺で出家、名を顕瑞と改名。 加治尋常高等小学校を卒業後、新潟県の雲洞庵認可禅林(四年制)を卒業、樺太の曹洞宗両大本山別院(楠渓寺)の布教師補、昭和14年曹洞宗布教総監部書記、昭和17年、東京の宗務院に勤務、曹洞宗報国会書記、同18年9月、新潟県神照山宝岩寺住職、同年12月、新潟県庁内仏教会書記、昭和19年6月結婚、3日後、臨時召集令により東部23部隊に入隊、昭和19年8月18日、シンガポール南方軍に向う途中のバシー海峡で乗船の啻亜(シア)丸が魚雷攻撃により撃沈、1250人中約1000人が戦死したが、18時間漂流後、救助された。 その後も2回海中に没し、最期にレイテ島に残ったのは、4人だったそうだ。 同20年2月頃、米軍捕虜になり、同年12月復員。 同21年1月に新潟県仏教会書記に復職、昭和32年3月、最乗寺及び東京別院を経て、40余年、現在、斎場算顧問。 (以上は、最乗寺寺報から抜粋。) 何とも凄まじい人生である。 新潟の曹洞宗の事情、原坦山に関する逸話など聞いたのだが、突然の電話だったので、メモも侭ならず、現在、記憶を整理中だ。 原坦山について書く機会に、聞き知った逸話など紹介したい。

 原坦山と謂う人は、実に興味深い人物である。 例えば、或時、或山中で「正光真人」という神仙に遭い、仙訣を授かり、「耳根円通法」という長寿健康法というか、神仙の奥儀を究め、『禅学心性実験録』を顕わしたとか、奇言奇行の多かった人のようで、多くの逸話が残っている。 原湛山については、そんな訳で、また別項を設けたい。

 また、石黒忠悳の原坦山評、単純に受け取ってよいものかどうか。 禅の素養がないので何とも釈然としない。 因みに、况翁・石黒忠悳は、文中しばしば、「安心立命」と謂う言葉を使っているところから、日蓮宗の信徒ではないだろうか。

Best regards
梶谷恭巨

第九回

 夢野は話の面白さに頗る奇異の思を成し、ハーそうで御座いましたか、夫から貴君は、どうなさったナと問えば、清水は吸いさしたる煙草(シガレット)の短かくなったるを右の拇指と人差指にて摘んで手あぶりの灰の中に葬り、烟管をばハンケチーの端にて一寸ふいて煙草入の上に置き、ヘンと咳払し、サア先生、これからが肝腎の本文で御座る。 扨(サテ)右の試験で、僕は高等官の候補たるべきものと鑑定は附たが何れの官衙(ヤクショ)で僕を使用すると云う当も無に由て彼是見廻したるに、幸いなるかな僕の学友が当時某大臣の秘書官を勤め亡父の知己の者も其省では幅を利せて居るに付き、先ず此の縁を求むるに若かずと思い付き、漸々の事で大臣閣下に拝謁の栄を得たが、此侯(マルキース)は、(即ち大臣を云う)、是まで夜会で両三度お目に掛った事があるし極めて寛大(リベラル)の政治家ゆえ、先ず話は出来そうに成ったが、是に引替え次官の男爵(バロン)先生は判任十五年奏任十年勅任十年と鰻登りに登り、此省の事はおれが鵜嚥(ウノミ)じゃ、一寸見た計りでも此書付は誰の草稿で、写字生は誰だと云う事まで分ると、乙な処に自慢はすれど重大なる事件に出会へば、是と云う分別は出ず、其癖定規定例の細い事なら楊枝の尖(サキ)で重箱の隅を浚(サラ)おうと云う代物で、表(ウワ)べには徳義を飾って辺幅を修むれども、一皮はげば真の俗物で鼻もちならぬ人物サ、長官が使おうと思っても此の次官の眷属が省中に網を張って居るからには、迚(トテ)も一通りでは済込ことは出来がたい所を不思議なる仕合は巣鴨伯爵夫人(カウンテス)の弟染井と云う仁は七年前西洋留学中バワリアで大病に罹った時に、僕がベルリンから駆付けて凡(オヨソ)二月余りも昼夜看病して漸く全快した事があったのを大層に悦び、今度僕が奉職し度いと云う事を聞き、夫人が態々(ワザワザ)其弟の染井氏(今では某省の権威家(キレモノ)を僕の旅館(ホテル)に差向け、斯々(カクカク)の次第と聞かれ報酬の積りで大周旋、勿論かの夫人はソレニ彼の筋に関係はあるし、其上に伯爵(カウント)は御一新の御三家金紋先箱の藩閥と来て居るから、忽ちに周旋其功を奏し、重箱次官も委細承知の二つ返事で、清水潔に御用がる、○○省参事官に任ず、奏任四等に叙して上級俸を賜うと云う宣旨が天降って、昨日の書生は一足とびで高等官、マアえらい立身サ、尤も夫人の方へは直さまお礼に参上して、今般の儀は全く北の方の御蔭御恩は一生忘れませぬと厚くお礼を申述べて相済だが、相済まぬは学友知己、左までの尽力も無いに御礼の賜物は先方から御催促、それも仕方が無いとした所が同僚の懇親を結ばねばならぬとか、属官にも近づきに相成るべしとか、入らざる御注意で、或は水っぽいビールを飲で謟諛(テンユ、おもねりへつらうこと)の席上演説を並べたり、或は紅の輪廓(リンカク)を附たる蒲鉾に栗きんとんのお料理で調子ッぱずれの端唄を拝聴したり、揚句は詰らぬ議論から酒の上の攫(ツカ)み合い、婆芸者と其家の女房の取押えて仲裁とは成ったれど、此方(コッチ)が其夜の主人だけに、翌日は双方に行て首尾を取繕う始末、ソンナコンナで札は鵞毛(ガモウ)に似て飛だ散財し、人は薄情を見て後悔すと云う有り難い仕合、これが即ち清水潔の下界を離れて青雲の上に昇ったる時のこと。

 サア是から我も高等官なり、イザ学芸才能の程を事務の上に顕わして見んと、ごさんなれ腕によりを掛けて出頭し、萌黄羅紗で張たる大机を前に据え、小豆皮の大椅子に腰を掛け、右の方には硯箱、左の方には御用箱、サア来い御座れと一身の全力を集めて待て居れど何も来らず、午前九時より十時十五分までの間は広々たる参事官室の一間に只(タッ)た一人、双眼をパチクリパチクリして黙座したる体は質に取られた唖の如く、煙草も已に吸飽たれば、溜り溜った溜あくびは一度にアート出でにけり。 給仕の少年は次の間で、此欠(アクビ)を聞付け、敏捷にも手に二三枚の新聞を携えて机辺(キヘン)に来り、是だけ廻って来ました、日々新聞と時事新報はマダ検査掛の手許で、只今ボチボチ最中で御座りますと告て退いたり。 これは忝(カタジケ)ない、実は今朝出勤がけに毎日新聞の法律社説をチョット見た計りであったと云いながら、其新聞を見れば、ナル程、朱にて所々にポチポチと点を附たり、又は圏(マル)を施したり、或は行ごとに竪棒を引てありぬ。 イカニ検査掛が文章家なれぞとて新聞の文章に批評とは恐入ると思いながらよく見れば文章の評とも思われず、記事でも議論でも、其省の事務か又は其省の官吏に係った事柄だけに朱を附けたり。 コレハコレハ御丁寧の御注意、その中に「○○省の参事官清水潔氏は昨夜独逸学会に於てチュートニック人種の事に付き、一場の演説をなせり、但し此稿を印刷に附する迄は、未だ其演説を畢(オワ)らざりしに付き、筆記の概略は明日の紙上に譲る」とあり。 イヤ拙者が事なら是ほどの御注意には及びませぬと、独りで可笑がりしが、又おのれと己れに向い、アヽ潔よ、卿(オンミ)は憫(アワレ)むべき身になられたり、卿(オンミ)が一言一行は此の通り新聞に載るが最期、すぐにポチポチを附らるゝぞ、此ポチポチは卿の進退に関る標(シルシ)にて、若しも長官の蟲の居所が悪いと此ポチポチは卿が旨を諭さるゝ因由となるべきゾと、且つは弔らい、且つは慰め、少しあぢき無い心地せられたり。 稍々(ヤヤ)時も立ちて十時になれば、次官御昇省の知らせとして給仕は隅に掛けたる次官の札をクルリと前に向けたり。 直に総務局に至り、今日の御機嫌伺いは恐らく、此の清水潔が一番鎗(ヤリ)ならんと思いの外、局長やら書記官やら四五名は既に疾(ハヤ)くも、其御機嫌を伺い畢(オワ)りてありぬ。 次官男爵は大な手提の皮箱(カバン)を鍵にて明けながら、此方を向て、「フー清水か、ドウだナ」の一言を賜ったり、側から見れば此の一言は余程特別の優待と見えて、中には羨ましいと云う顔色をしたる人もありし、斯くて再び参事官室に戻って見れば、僕が同僚前輩の参事官二人ほど、只今しも出勤して各々其座に就き、・・・・・・・、「ヤアお早かった、僕は今朝早く大臣殿に伺候して、夫から某省に廻って来た、・・・・・・・、左様か、僕は出勤しようとする所に某議官が来て、議案の相談で今まで掛ったと忙しそうに書物の包を解たり用箱の蓋を明けたりして、罫紙に書て綴たる書類を幾通となく机の上に堆々(ウズタカ)く積み、一々これを覧(ミ)る様なれど、実は左までの事では無いと見えて、ズンズンと検印を押し、左の手に一纏にもって、僕に渡し、「サア清水君、これに小印を押し玉へ、尤も君に意見があるなら提出し玉え、だが大抵常例の事で已に僕が印を押したれば、君は別に見なくとも小印を押しさえすれば宜しい」と極々無造作なる御示し、然らばとてポケットより小印を出して押し初めたり、此の小印は奉職と極ったる時に中井敬所に誂えて拵えたる銅印にて、此印は苟(イヤシ)くも人民の休戚国家の利害に関するを以て、是を押すには最も注意せざる可からずと案じたるに、斯く訳も無いものとは思わざりき、他の一名の同僚は、僕を呼びて、「清水君、この一通は御注文だから異見を容るゝ可からず、此の願筋は少々おかしいが深き事情あり、敢て犯す可からず、是は今以て僕等の処に何たる沙汰も無ければ、暫らく留め置て様子を探るべし、其間は異議も云わず同意もせず、曖昧にして置くが肝腎なり」とて書類を渡し、「此外は異存があるなら陳(ノ)べ玉へ、無いなら無いで宜し、君の御都合次第」とて、ほうり出したるは中々事務に慣れたる手際なりき。

 前々回および前回の欠落部は、今回の出だしから推測して、清水潔の話であったようだ。 しかし、それにしてもとでも云おうか、福地桜痴が皮肉屋であることは、それなりに知っていても、或は、相当の誇張があるとは承知していても、明治政府がやっと起動に乗り始めた時期であることを考えると、些か疑問に思うやら、驚くやらとうのが実感。 『柏崎通信』に紹介した「参観報告書」に見える漱石の客観性からは想像し難い官界の状況。 確かに、維新も二世の段階になって、藩閥政治の弊害が顕著に現れ来たのではとは、推測されるのである。

 明治32年、外山正一博士の『藩閥之将来』という小論が、博文館から出版されている。 これは、大学・高等学校の出身者を統計的に分類し、藩閥の実態を紹介するとともに、その原因として教育を上げ、藩閥問題の解決には、教育格差を解消しなければならないとしている。 しかし、これにも疑問がある。 というのも、中等教育が、薩長土肥に偏していたかといえば、必ずしも、そうとは言えないのである。 特に、鹿児島では、西南戦争の影響があり、寧ろ中等教育の施設充実は遅れているのだ。 ただ、子弟の支援のための基金なり組織の点に於て、他よりも進んでいることは確かである。 この事から推測すれば、教育に対する県民意識の方が寧ろ重要なのかもしれないのだ。

 どうも明治という時代は、時期に依っても違うのだろうが、単に俯瞰的に捉えるのではなく、俯瞰者自身が時間軸に従って移動しなければならないというべきか、或は、現在の戦略・戦術偵察システムの如く、多点同時偵察と情報の有機的統合化による分析が必要な時代なのかもしれない。 というのも、以前から「ある旧制中学校長の足跡」の図式化を思案しているのだが、試行錯誤を繰り返すばかりで、これといった方法を見出せないでいるのだ。 例えば、データベースの図式化法を試みてみたが、リレーショナルが多次元に亘り、膨大になり過ぎて、とても図式化といえる代物には程遠いのである。 それに、UMLも然りである。 それではと、最もオーソドックスな年表形式でと試行すれど、文字情報の山になり、これも、誰もが一見して理解できる図式化とは言えないのである。

 とまあ、そんな訳で、「学際ネットワーク図」を想定していた甘さがあった。 結果、最初の関門である図式化に四苦八苦。 何かよい方法はないものだろうか。

Best regards
梶谷恭巨

第八回(残っている部分)

 何を推究し遂に其功は伊太利人の力に出でたる証拠を一々に挙げ東西の書籍と遺跡とに照して一部の著書を出版し、然(シカ)のみならず伊太利政府の依嘱に應じ同国にて是まで六七百年間東洋諸国との間にて往復したる公文を訳して差出したる功に依り勲章を賜はったる程で御座れば実は是等の証状ばかりで別に試験を受るには及ばぬ筈なれど、試験官が併し一応は試験を致すと申さるゝから其は固より願う所なりとて、其の試験を頂戴いたしましたが、何が扨(サ)て独逸大学の卒業試験を顧みれば与し易きのみサ。 夫(ソレ)に試験官に選ばれて威儀(ヂグニチー、dignity)を整えて臨席したる先生たちを見れば、ソレ先生も御存(ゴゾンジ)のフランクホルトで何時もいつも不出来ばかりして、皆が嗤って居た長来(チョンキナ)氏が主席を占め、其次がオックスホルトで、三落第と異名を取ったる鈍井(ニブ非)氏、其次は僕は知らぬが、何でも東京の法科大学で卒業した解部(トクベ)氏、但し此人は西洋に行て、官は取らぬが一番学術は確そうな人物、其次が米国留学中で誰も知らぬものも無かった玉突名人の賭川(カケガワ)氏、其次が法螺(ホラ)協会の幹事で自称術数家(ヂプロマチスト、diplomatist)の茶良鉾(チャラボコ)氏で御座りました。 尤も委員長は御承知のMay Be大博士、此の大博士は議論に詰められて窮すると流石に僕が過ったとも云い兼る負惜(マケオシミ)から何時でも小声にてメービーメービーと言うに由ってメービー大博士の栄位を明治廿八年に世上より賜わったる先生なり。 右の連中ゆえ中々試験は面白う御座いました。 僕が試験を受けた箇条は、ナニ平々凡々で詰らなかったが、他の出願者が続々と出掛けて一々試験を受るのを傍聴して、実に腹の皮をよりましたぜ。 先ず口頭試験と云うが試験する人も人なら、試験を受る者も者で、其の問答は奇々妙々、右にはずれて問えば左にはずれて答え、虚々実々の駆引、西洋各国入乱れの弁論(モンドウ)は左ながら禅家の問答の如し。 加うるに西洋の語は英仏独の三国語に羅甸(ラテン)希臘(グリーク、ギリシャ)を交え、日本の語(コトバ)は、東は津軽、八法外が濱、西は隼人の薩摩潟、七十ヶ国の方言が勝手次第に出ますれば、若し語学者が耳を澄して聞たなら、「邦語は凡(オヨ)そ八十余種、語音(ゴイン)は三百六十余種、ナール程、日本は貧乏とは云うものゝ、語音には実に富で居る国だ羨ましい」と申すで御座りましょう。 斯様に種々薩埵(サッタ)の人種が皆いずれも高慢の鼻を尖らし雄弁の訛音(ナマリ)を振い、問えば答え、答うれば問い、天晴なる振舞は誠に比類なき見もので御座りました。 夫から筆記試験の答弁対策に至っては、更に一層おもしろいのが沢山に御座りましたが、一々お話も出来ぬ位に、新聞紙の口調を借りて簡単に申さうなら、「人々一家ノ語法アリ一家ノ文法アッテ各々独立ノ文章ヲ作レルガ故ニ百人ノ受試験者アレバ百様ノ語法文法ヲ以テ其文章ヲ作レリ、而シテ其文章ノ澯然(サンゼン)タルト云ウ事能ワザルナリ。 何トナレバ、其文章ハ不束ニセヨ不出来ニセヨ、意味ニ不通ナルニセヨ、試験官ハ之ヲ認メテ、是レ日本ノ文章ナリ是我等ガ平日ニ草スル所ノ文章ト同種類ナリトシ、以テ曲リ状ニモ日本全国ニ通用ス可シト断定シタレバナイ」と云うもので御座りましょう。 若も春の屋おぼろ氏か誰かに眼のあたり其様(サマ)を見せたなら、其実況を写したばかりでも一冊三百ページで上中下三冊の滑稽小説が一部出来ましょうよ。 老輩の話を聞きまするに十六七年前に文官試験規則を初て実施せられた時には、試験も中々厳重で請謁(セイエツ)などゝ云う事は、当時藩閥の積威が有った時でさえ、微塵毫末(ゴウマツ)も行われず、洵(マコト)に方正公平で有ったそうで御座るに、明治三十六七年の今日に至って、斯く相成り曳白(エイハク)少年でも紈袴(ガンコ)子弟でも、サッサと試験に及第が出来るは不思議の世の中、これが社会の風潮で御座りましょうよ。 但し、僕は幸いに及第しましたに依て、夫から愈々官員に成れる丈の資格を備える人物と折紙が附き、夫から住込の一段と成りました。

 第七回の後段と第八回の前半が欠落している為、誰の話として展開しているのか不明。 一応、今回は、原文のみを記載する。

Best regards
梶谷恭巨

 

「三 越後の晴雨計」

 吾故郷越後の昔話に曰く、昔年長岡在に六太夫という農夫あり、晴雨を卜すること神の如く、一も違うことはなし、郷党之を信じ、自らも亦信ずること篤し、此事長岡の城主牧野侯の聞く所となり、徴せられ士班に列せらる。 其秋侯の参勤(諸大名は参勤交代とて一年封国に在れば一年江戸に在る也)に随い東上して江戸に到る、主侯別邸に於て客を招て鴨狩の企あり、其前日晴雨を六太夫に卜せしめしに、報じて曰く、明日晴と、然るに何ぞ図んや当日大雨盆を傾くる如く、主客皆濡る。 此に於て主侯大に怒り、六太夫を罰せしむ、六太僅に死を宥(ゆる)されて笞(む)ち逐(おわ)れて郷に帰る。 郷人其失策せし所以(ゆえん)を問う、六太夫対(こたえ)て曰く、初め郷国に在て晴雨を卜するに、いつも弥彦山(越後の名山)に雲のかゝれる模様によりて卜せしに、江戸に至りて後ち屋に上りて四方を望むも弥彦山を見ること能(あた)わず。 因て止を得ずして富士山に雲のかゝれる模様を見て卜せしに、此の如き大失策を来せりと。 此話其信偽は分らねども、以て深く世人を警するに足る。 彼の弥彦山の雲を以て江戸の晴雨を卜さんとする者世間甚だ多きことなからんや。

 評曰(評して曰く)往日藩閥の最盛なるや、薩長土肥の藩人其藩に在るや僅に郡宰若くは里正なるも、出て朝に仕うるや、直ちに勅発の高きに任じ、大政に参し、計画する所往々当を失す。 郷国に在て僅に名を得たる者之を大都に出して、大事に当たらしめんとする輩頗る鑑むべきなり。

 「井の中の蛙、大海を知らず」ということであろうが、藩閥問題など当時の事情を考えると、少々評し難いテーマである。 思案して後、改めて書くことにしよう。

Best regards
梶谷恭巨



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