江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 『况翁閑話』(15)-豪傑試験法稲荷大明神の託宣 一日数人集りて豪傑の談に至り遂に豪傑を試験する方法に及ぶ、衆皆な考案に思を凝す折柄、一老翁傍らより曰く、豪傑を私見するには古来唯一の一方法あり、夫は豪傑と思う人を三人でも五人でも早朝に集め、一度に放ち出して夕刻日没迄に出来る丈けの金を才覚して持帰らしめ、其持帰りたる金の最も多き者が其内の第一の豪傑と定めて決して違うことなかるべし、英雄豪傑だのというたとて、金の才覚程六け敷ものはなし、よしや大馬鹿者でも金さえ出せば英雄も豪傑も学者も自由自在に使わるること実に意の如きものなり、是は余が少時に耳にしたる話なれども、明治開明の今日に至りても、此説は決して古びず陳せず、益々其然ることを歴々証明する所なり、豪傑という字義を案ずるに、淮南子泰族訓に曰、智十人に過るを豪と謂う、智百人に過るを傑と謂うちありて何に致せ智恵が千百人に勝れるどころではなく、何十万人という大多数の人に選挙されたる代議士などという人は、実に豪傑の其上の又其上のエラ者なるは勿論なれども安きは五十円、上等にて二百円位にて買収さるる者もあるなどとの風聞あり、是は全く無根の悪口にて、所謂斉東野人の語るべきは勿論なれども、金というものの功力あることは疑うべからず、前に述るごとく金の才覚に長じたる人を即ち豪傑と定むるは古今上下に通じての確論なり、云々と一処此説を聞きて為に語なかりし、因て思うに、余輩丸で此翁の説に左袒(サタン、味方する)する者にはあらざれども、世の中には金策程六ケ敷ものはあらざるべし、余甞(カッ)て聞きしことあり、某所に霊験著しき稲荷大明神の祠ありて、吉凶禍福祷(イノリ)に応ずること実に著し、一夜書生某祠に詣で終夜参籠して学資金三十円を授け給わんことを立願す、夜半思わずまどろみ眠りたるに、夢に稲荷大明神顕れて霊声厳かに告給うて曰く、汝の願を達せんとすれども不能なりと、某生其故を伺い奉りしに、大明神更に曰く、我輩神通自在なりといえども、人の一心に衛る所はいかがとも致し難し、故に人あり美人を探し出して之を授く、珍宝も亦同じことなり、然るに金銭ばかりは唯の一人にても油断して放置(ほうりぱなし)に致しあるものなし、啻(タダ)に並々の人間而巳(ノミ)ならず活佛と称せらるる漢洋の哲学者は勿論上下一般金の為にはどんな事でもするなり、我輩も亦た常に狐に鍵を持たせて蔵を衛らせ、一文も出さしめざることを示す、如此有様なるゆえ、金銭ばかりは願を遂げしめ難しと宣玉(のたま)いたりと、前の老翁の説、又此稲荷大明神の託宣とも、趣味ある言というべし。 評曰、金銭の人心を蕩し又人心を縛す近年に至り殊に甚し、此編を読て心竊(ヒソカ)に慚(ハジ)ざるもの世間又幾人かあるや。 (注)淮南子: いつの世も変わらぬということか。 某稲荷社、選挙時になると候補者の稲荷詣でが盛んになるとか。 何でも、祈祷料金一封が百五十万円。 稲荷大明神も、呆れて果てているだろう。 山本周五郎の小説に「三回り稲荷」の話しがあるが、出てくるのは、貧乏神に疫病神、最後に取り付くのが死神様だ。 そえりゃあ、お稲荷様でも、嫌味の一つも言いたいだろう。 経世済民の経済だったが、今じゃあ、計財ばかりが罷り通る。 何とも窮屈な世の中だ。 斉東の更に東の蓬莱島、道理の通らぬ野人の言葉、もしかしたら身近な国か。 しかし考えてみると、『詩経』ではないが、野人の日常にこそ、自然の摂理があるのでは、とまあ、そんな事を愚考する。
PR 『况翁閑話』(14)-温厚と軽薄 青年長尾秋水翁(長尾氏は元臥虎山樵と号し、彼の一時人口に喧伝せられたる松前城下作と題し「海城寒柝月生潮、波際連檣影動揺、従是二千三百里、北辰直下建銅標」という詩を作りし人なり)に逢うたる時、話次、余波象山先生の詩二三首を録して示したるに、翁一見曰く、皆詩にあらず、詩の真味は篤温厚柔にあり、此詩の如きは圭角露出一も詩の体を得ずとて席に抛(ナゲウ)ちたり、於此予と一塲の大議論を生じたることありしが、今より思えば翁の説蓋(ケダ)し是ならん、其後杜詩を読み、つくづく感じたるは、杜詩に「避人焚諫章」という句あり、なる程君を諌める文を作る原稿は、決して止め置きて後に遺すべきものにあらず、況や他人の目に触るべきものにあらず、之を焚き去るにも尚人を避けて、秘密にすべき也、然るに上表諫文を文集に掲ぐる等は、実に杜氏に慚(ハ)ずべきなり、然るに近世は世人の不行を議するに、直ちに其人には一言もせず一書をも与えずして、しかも誰に与うる書と題し、数千百言を連ねて新聞に揚ぐるもの其例一二に止まらず、其意果たして何(イズ)くにあるか、澆季(ギョウキ)の世風とも称すべきか歎ずべきなり。 評曰、先生一見豪放なるが如きも、其実は緻密周到、談話に文章に苟(イヤシク)も他の短を露言にせしことなし、宜なるかな常に此心ある。 (注)長尾秋水: 1779(安永8年)-1863、江戸時代後期の漢詩人。 安永8年生まれ。越後国村上藩士の子。 水戸でまなぶ。 文政2年蝦夷地(えぞち)(北海道)松前にわたり、以後諸国をめぐって北方防備の急を説く。 晩年は村上で藩士の子弟に漢詩をおしえた。文久3年3月18日死去。 85歳。名は景翰(けいかん)。 字(あざな)は文卿。通称は直次郎、藤十郎。 別号に臥牛山樵、青樵老人など。 (講談社『日本人名大辞典』
『况翁閑話』(13)-処世の要は自分の力量を知るにあり 世に処するには、自分の才能を明らむるが第一の要点ぞ、自分の才能を明らめたら、其一等下りたる事業を執りて安んじて勉むれば、安泰にして結果を全うすることを得べし、世の終を全うせざる人、又は事を執りてやり損(ソコナ)い世の笑を招き、甚だしきは百年の後ち識者に筆責せらるゝ者は、皆此自分を知るに暗くして自分の力量にあまる仕事を企てたり執たりするからだ、併し自分の才能を知るということが、頗る難い事である、吾輩の如き凡物ですら、時たまには、時事を傍観して、若も吾が国務大臣たりしなら、此(コ)うはしまいに、彼(アア)しように、などなど、十方十轍もない夢の如き事をば考え出す事が度々ある、況んや政事家と自称し、大臣の夢を夜々(ヨナヨナ)借家一と間に夢みる輩や、自分の力量が計られないのも尤もだ、併し自分で計られなければ、他人に計りてもろうが第一だ、他人に計りてもろうには、別に頼むにも及ばぬ、他人が推すままにまかせ、大臣にするというたらなるがよし、又等外にするというたらなるがよし、身を進むことに付ては自ら運動したり、又自ら請願したりして、位置を求むるというが、最第一の大過ちだ、他人まかせにすれば決して一段高くは購(アガナワ)ぬものだ、拙者などは、他の事は大間抜だが、此点に至りては、聊(イササ)か悟る所があり、いつでも他人の進めらるる時でも一度も二度も辞退に辞退をして、夫から御受をしたから、円満辞職も出来たのだ、北條時政や泰時が、鎌倉幕府の執権に甘んじて世を終えしも、蓋(ケダ)し自分の力量より一等下段の事に甘従したるものならざらんや。 評曰、先生蓋し老子を解する事深かるべし、此談話に於て之を推知す、末項、北條氏を論ずる如き、僅に二三行の文字、史家数千言の論説を尽す。 『况翁閑話』(12)-人は短所に敗れずして長所に敗る 熟(ツラツ)ら自ら一身を省みて、其最も長所なりと自信する所に注意せざれば、其長所の為に敗を取り、又長所なりと自信しる所のもの多くは真の長所にあらずとは、余が幼時(オサナキトキ)先(マズ)大人に承りし所の金言也、成長の後これを世事に対照するに、多くは然り、其一二の例を挙ぐれば、余の老友に太刀川柳所という人あり、俊才にて多芸なり、囲碁は其最も得意とする所なりしが、余一日其又友人圓山貝陵という人に太刀川は多芸なるが、就中(なかんづく何が最も秀抜なるかと問いしに、貝陵曰く、彼れ常に多芸に誇れども、其言未だ甞て算数に及びしことなし、恐く此算数尤も諸芸に秀抜したらんと、後ち之を調査したるに、諸芸中最も秀たるは果して算術なりし、 太刀川柳所及び圓山貝陵について、小千谷市立図書館の新野氏から問合せに関する回答があったので紹介する。 越後魚沼郡の山林に一老農あり、長髯(チョウゼン)雪白常に郡中無比と誇称す、一日人あり来りて慇懃に交を求め、美髯を賞歎して止まず、後日一僧と共に来りて曰く、此翁を労すべき事あり、そは貴翁の美髯之を此山村に置くを惜み、広く衆人に示さんとす、然れども唯髯の美なる而巳にては人之を尊敬すること薄し、因て木食上人なりと称せば人之を敬信し、捐財寄附も亦多かるべし、貴翁凡三十日間我輩に擁せられ、輿中に舁(カツ)がれ、尊敬を受けつゝ各村を巡り、日中は陽に食をなさず、夜間竊(ヒソカ、窃)に飽食せられば三十日にして少なくとも金百両を頒(ワカ)つべし、若し金百両あらば、如此老身を此来耜(ライシ、すき)に労するに及ばざるべしとて、甘言以て勧めければ、老翁其自ら誇る所の美髯を人に示すの栄と、百両を得るとの慾にかゝり、遂に之を諾し、此輩の擁する所となりて輿に舁(カツガ)れ、日中食わず、夜間竊に一握の圑(団)飯を食う而巳にて各村を巡りしに、美髯木食上人の名一時各地に嘖々(サクサク、口々にやかましくうわさするさま、口々にほめそやすさま。「名声嘖々」)として信者群を為し、賽銭多く集れり、其後古志郡某村の山中にて或る樵夫(キコリ)は山間に一老翁の衰弱して起つこと能わず困臥するものあるを見出し、近づき介抱して聞き糾(タダ)せば、此れ美髯木食上人にして、乗輿巡村の末一銭をも頒與(ケンヨ)せられず、山中に遺棄せられしことを語る、於此(ここにおいて)樵夫擔(ニナ)い帰りて遂に其家に送致せりという、若夫此翁の如き其自ら信ずる美髯の為に此災を得たる也、世上自信する所の為に敗を取り、又悪少年の為に輿に迎えられ、遂に山中に棄らるゝ者或はなしとすべけんや。 評曰、藩閥の元老才識已に陳腐なるも、尚自ら之を揣(ハカ)らず、少壮の策士に擁せられ往々失敗するものあり、宜しく此に鍳(カンガ、鑑の異体字)むべきなり。 (注)木食上人(モクジキ): 1718年(享保3年)- 1810年(文化7年)は、江戸時代後期の仏教行者・仏像彫刻家。 「ウィキペディア」より。 この話、余ほど自信のある人の言だといえる。 大抵の人は短所で失敗するものだ。 その自分の短所を知ればこその言葉だろう。 凡人は、自分の長所を知らないか、あるいは、それを活かせない。 最近は教育も米国風で、長所を引き出し為に叱らずに誉めることを奨励する。 自信が無ければ、気力が萎える。 気力が萎えれば、流れに沿って竿をさせない。 目の前の急流で躊躇する。 揚句の果てに転覆か。 概して、自信に溢れている時代は華やかだ。 その華やかさが時代さえも導いていく。 ケインズの謂う流動性選好。 同時に、そうした時代には、革新と回顧が同居する。 最新のファッションと伝統文化。 「人は短所に敗れずして長所に敗る」とは、維新の自信が傲慢へと変化し、華やかな外見の陰で、伝統への回帰が指向され始めた時代だったのではないか。 明治中期辺りから、藩閥に属さない社会の中堅を形成する知識人が急増する。 評者である坪谷善四郎は藩閥を意識して評しているが、况翁は寧ろ、藩閥の短所ではなく、新興する反藩閥の長所に対して、警鐘を鳴らしているとも取れるのだが、さて、その本心は何処にありや。 『况翁閑話』(11)-トンチンカンの考を悔ゆ 余歳三十八年に一女を、四十年に一男を挙ぐ、女は孝と名づけ、男は忠篤と名づく、余常に兵士の身体に心を用い、其徴集して新兵に仕込を見るに、幼少より常に座して育てられし故に、ズボンを穿せて直立さすれば、脚の湾曲せざる者鮮(スクナ)し、依って我見は幼時より常に椅子に倚(ヨ)らいめ、座せしめしとなし、然るに明治廿五年忠篤九才の時、携えて帰省したるに、郷里の豪商諸氏に招かれ、珍客に扱われ、緞子の蒲団を敷き、二の膳附き袴羽織の給仕という御馳走に逢うたるとき、忠篤は余の次席に就きて、止を得ず正座せしめしに、暫時にして足痺れ膝痛みて食事どころか座に堪ず、頗る困難せしめたり、又孝女に音楽を教うるに、三味線だの、琴だのというものよりも、西洋音楽のピアノこそ律正しく音繁く、都での音楽の基なれば、之を学び居れば何でも出来るとの考にて、よき師家に就けて今に学ばしむ、然るによくよく考え見れば、我輩の娘だから、武官ならば中少尉、又は二三等軍医、武官ならざれば、卒業したての学士輩にでも嫁せしめねばならぬ、併し中少尉二三等軍医の分限にては、其家は広くも八畳六畳三畳位の家だ、そこで八畳六畳位の家に、ピアノを持込だら、夫婦にて寝る所がなくなる、そうかというて、広く家に住われぬ、此に於て年来学び習いたる、ピアノは持て嫁することが出来ぬ、そこで男子にも女子にも、此トンチンカンの考は、皆大はずれに外れて、今に後悔します、さて是は小事だから、後悔位で済むが、天下を料理する政事とか、又は経済とか、国家の大計は誰が後悔ばかりでは済ぬ、故に一朝一旦の思付にて新らしき事を始めると、如此結果となるなり、慎まざるべけんや。 評曰、先生先ず自踏の過を述て、以て結論を確定す、世間政を為す者、此過失をせざる者稀なり、之を大にしては伊藤侯の憲法、山田伯の司法制度、山縣侯の村町自治制、其名其体皆共に善美、而して其国民に及す所の真利恵沢は果して如何ぞや、況や各省の法規例則をや、此編大政事家の規箴(キシン)とすべし。 (注)忠篤: 石黒忠悳の長男、明治17年(1884)1月9日-昭和35年(1960)3月10日、農商務省官僚・政治家、「農政の神様」と称せられた。 新渡戸稲造・内村鑑三の門下生といわれ、新渡戸稲造宅に柳田国男や牧口常三郎らと共に「郷土社」を開催する。 芹沢光治良の『人間の運命』に登場する黒石課長は、石黒忠篤がモデルと云われる。 ところで、この『人間の運命』は、全14巻に及び長編、古本を探して見るが、プレミアが付いている。 今のところ、ここまで手を広げると、カバー仕切れ無くなりそうだ。 どこか、勝海舟の『氷川清談』を思わせる書き様である。 幕末、下級幕臣から身を起した人々に通じるのではないだろうか。 先日、NHKの歴史番組で、「勝海舟」を取り上げていた。 勝海舟の文明批判に、「トンチンカンの考を悔ゆ」と相通じるものを垣間見た。 石黒は、少年時代、父親の御供で上野の東照宮に参拝し、道途、川路聖謨(トシアキラ)の話しなどを聞いている。 その事が、後年の生き方にも影響しているのではないだろうか。 越後の片貝村池津でも、「俺は、江戸っ子だ」という意識があったのかもしれない。 勤皇攘夷を志しながら、戊辰戦争の時期には、師である松本良順(単に、順)に従って、佐幕軍の軍医をする訳でもなし、故郷に帰っても、傍観者のように見える。 親友である関矢孫左衛門のように、一隊を作り、積極的に官軍に参加しているようには思えないのである。 土壇場で、心象風景としての「江戸っ子」と「尊王攘夷」の葛藤があったのではないだろうか。 この辺りにも、石黒忠悳のその後の生き様が窺えるようだ。 Best regards |
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梶谷恭巨
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1947/05/18
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