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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第一回

 駅丁が振鳴したる鈴の音に夢を醒し、寝ぼけ眼をコスリながら周章(あわて)て傍らに置きたる旅帽子を冠(かぶ)り、、左の小脇に外套を挟み、右の手には旅皮包(かばん)の穢(きたな)くよごれたたるを重げに提(さ)げ、左の手には蝙蝠傘と太やかなる杖を持て、同車の乗客と共に押合いヘシ合い飛び出したる有様は、左ながら一番乗の功名に、先を争うに異ならず。 車を下りたる旅客は、夫々(それぞれ)に皆其塲(そのば)を去りたれば、左しもに広きステーションも、車が着てから僅か七八分ばかりの時間にて、忽(たちま)ちヒッソリとは成りける。 彼の旅帽(りょぼう)先生のみは、未だ雇い車を見当らざるか。 夫(それ)とも出迎の者に会わざるにや。 独り茫然として佇(たたず)みしが、ステーションの正面を見上げ、ハヽアーもう日本でも羅馬(ろーま)字や亜拉比(あらびや)数字を一体に用ゆると見えるな・・・・・・・・・ムー日本紀元二千五百十三年、明治36年、基督紀元二千○三年八月廿一日、ナルほど年月日をコウ大きく張り出して置くは調法じゃと、口の内に独語(つぶやき)ながら其処(そこら)あたりを見廻しユキ、ハテナ此(ここ)は上野ステーションである筈だが、向うに雁鍋や岡村の看板が見えぬは不思議・・・・・・・・・・尤(もっと)も、おれが東京を出てよりモウ満十五年になるから、普請も煉瓦に改まり、此所(ここら)の店も換(かわ)ったか知らぬが、夫(それ)にしても、マサカ上野の公園までが引越した訳では有るまいに、公園も見えぬは不思議ダと口小言(くちこごと)を並べて彼所(かなた)此処(こなた)と彷徨(さまよい)たるを見て、駅丁は、コイツ初めて東京に来た漢(おとこ)と見て取り、貴君(あなた)は何所(どこ)へお出でなさるので御座るかと問えば、旅帽は落付きたる顔色にて、イヤ余(わたし)は只今車から下りて、ツイ近所へ参る者で御座るが、夫にしても此は上野のステーションで御座ろうナ。 イヽエ此(ここ)は北ステーションで原(もと)は佐久間町の河岸というた所で上野はズット後で御座る・・・・・・・・シテ貴君(あなた)のお出先(いでさき)はどちらで御座りますか。 ナル程こゝは佐久間町ダ、あれが筋違(すじかい)の眼鏡橋の二代目ダナと頻(しきり)に見廻して漸々(ようよう)方角がボンヤリと分解(わかっ)たかして、駅丁に向い、余(わたし)が参ろうと思う先は、下谷ではお多福横町、神田ではお玉が池、両国では山伏井戸の医者新道(しんみち)で御座る。 決して御心配下さるなと、事もなげに答えて、ステーションを立出で客待の雇馬車を呼び、やがて荷物など請取(うけとっ)て、馬車の屋根に載せ、往先(ゆくさき)は是々なりと差図(さしず)すれども、御者には更に分らず。 気の利かぬ御者ではある。 例えば大かた昨日あたり無人島から来た人であろう。 去りとは東京不案内そうでよく御者が出来ると嘲れば、御者も亦(また)旅帽の面(かお)をぞ穴の明くほど見詰めて、ハヽア、おまえさんは加莫察加(カムシャカ)から初て東京見物に来たお方じゃナ。 今朝、烏蘇里(ウスリ)から来た客は、おまえさんより餘(よっ)ぽど東京の方角を知て居たと、売詞(うりことば)に買詞(かいことば)。 次第に声が高くなり車夫や馬丁が何事なるかと集れば、巡査も其所(そこ)に来合せて委細を聞き、旅帽に向い、イヤ是は御者が申す方(かた)が尤もで御座る・・・・・・・・・・・・貴君(きくん)は何地(いずく)よりお出でなされた・・・・・・・・・・ナルほど十五年目に只今東京に帰った所で御座ると・・・・・・・・・・フー左様な町名は十五年前までは残って居たろうが、只今では誰も申さねば知ったものもないで・・・・・・・・・・夫に市区改正が追々に出来るので町筋も替れば町名も替って昔の字はトント通用いたさぬでナ・・・・・・・・・・・イヤイヤ(繰り返し記号)知れるとも知れるとも(繰り返し記号)東京方角辞書の江戸古名部を捜せば屹(きっ)と知れるが、此処には備えて無いから間に合い申さぬ・・・・・・・・・ハテ困ったものだ。 サゾ御当惑で御座ろうナと。 種々工夫しても思案に能(あた)わず。 果ては日本橋辺の何がしホテルは上等の旅館にて取扱も信切(しんせつ)なりと云うに付き、去らばとて旅帽は御者に誘われ、心細くも其の旅館(ホテル)へは投じたり。

 東京の急激な変化を風刺したものであろう。 町名、番地の変更など、それに合併騒ぎも、しばらく前に経験した。 行政的利便を優先した行政区改革など、庶民にとっては文化の破壊。 皮肉に云えば、往古の地名の探索が一つの趣味にもなっている。 百年後には、研究者泣かせ。 インターネットでもなければ、歴史の探求など夢のまた夢。 新しい地名から文化が定着するには、もしかすると、それ以上の時の流れが必要かも。 昔も今も変わらぬとは、なんとも皮肉な話である。

Best regards
梶谷恭巨

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 はじめに

 「柏崎通信電子ライブラリー」については、既に述べた。 その始めとして、福地源一郎の『もしや草紙』を採り上げる。 全編50回の連載。 始めとするには適当と考えた次第である。 書誌は次の通り。 尚、旧仮名遣い等は、現在の仮名遣いに変更し、旧漢字・難漢字については、()内に読みを加え、読み易くするため句読点や「」なども加えた。

 書名欄: 増訂『もしや草紙』
 著者欄: 桜痴居士戯著
 出版社: 東京・文海堂
 刊行年: 明治21年
 著者名: 福地源一郎
 形態等: 384ページ、他に図版

○もしや草紙序
 喜ぶべく嗔(いか)るべく笑うべき哭(な)くべきものは社会の顕象なり。 是れ豈に(あに)居士が放言ならんや。 居士春来、宿痾(しゅくあ、持病のこと)再び発(お)りて劇務に堪えざるに由り、東京日々新聞の主宰を、挙げて後任に托したるに、後任は居士が全く筆を紙上に絶たん事を惜み、責ては戯著(ざれがき)にても稿してよと請えり。 其さえ拒辞せんも、了得なれば、毎日々々心に浮べる侭を書綴りたる「もしや草紙」、これと云う趣向もなければ結構も無し。 書肆(しょし)石塚氏が勧めに應じて増訂を加えたれど、実は冊子となして世上に示す程の価値なきは、居士みづから是を知る。 抑(よく)も居士が此草紙を稿せるは敢て世を嘲(あざ)り俗を罵(ののし)らんが為には非ざるに、世上読者の眼光は、往々居士が思想の外に透射して、種々の品評を下し来るを以て、居士に取ては迷惑なりと思う事も尠(すく)からず。 原来取り留めも無い寝言には何の深意微旨のあるべきぞ。 然らば則(すなわ)ち此草紙や得意を鳴らせりと云わんも可なり、不平を訴えたりと云わんも可なり、滑稽の間に風刺を寓せりと云わんも、江湖の状を写して、悲憤を洩(もら)せりと云わんも、亦(また)皆可なり。 読者乞う。 随意に読み随意に評せよ。 居士は決して之に関せざるなり。

 明治廿一年一月十一日 桜痴居士識

○もしや草紙緒言
 夢かと思えば夢にあらず。 現かと見ればうつつとも覚えず。 夢ならで早く醒めよ。 現には争いか)で、さる事のあるべきやとは悟れども、悟られぬが即ち浮世。 もしや今のが正夢かと云う様な事が明日(あす)の日にでもあっては大変。 ころばぬ先の鳩の杖、長雨に土蔵の目塗、ただ用心に若(しく)はなし。 あゝ浮世は夢。 夢の中での夢ばなし。 もしやの夢は又その夢。 寝言のまゝの根なしぐさ。 見たか聞いたかも朧(おぼろ)にて筆に任する戯著(ざれがき)ならば、固より是を目指したる的標(あてど)もない夢鉄炮(てっぽう)。 ナンダカ障(さわ)った心地がしても、其が所謂(いわゆ)る偶中(まぐれあた)り。 必らず御気に懸られな。 寝言じゃぞや寝言じゃぞや。

 明治二十一年八月二十一日の夜、桜痴居士寝ぼけながら識す。 原序

 次回は、第一回から。

Best regards
梶谷恭巨



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梶谷恭巨
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
読書
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