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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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『况翁閑話』(10)-戦時傷者死者に彼我の別なきは其由来遠し

 戦時に彼我の別なく負傷者を救療するとか、病兵をば局外の者に看做すとかいう事は、余が創意なる日本赤十字社幻燈演述に述べし如く、我国にては、遠く、神后皇后の征韓軍令に揚げられ、又西洋にては「敵負傷するや我兄弟也」との格言は羅馬(ローマ)人の言なり、故に千八百六十四年八月二十二日に締結せられたる赤十字条約は、古来の良習慣を公法にせしまでにして、此事業を創始せしにはあらざる也、近日も高野山に登りて二の近證(キンショウ)得たり、其一は文治二年四月廿二日付後鳥羽天皇の綸旨にて、其文に「平氏滅亡せしむるの処、自己逆心のためと雖(イエド)も且遺恨を含まんか、其怨霊を宥(ナダメ)る為に法要すべし云々」とあり、其二は慶長四年に島津忠恒が建立せし石碑にて、其文中に、朝鮮国にて討取たる朝鮮兵及明兵並に身方の死者の菩提を弔うの語あり、以て知るべし、古より戦時に於て傷者死者に対しては彼我の別を立てさりし事を。

 評曰、先生常に曰、東洋道徳四海学芸と亦此意。

(注1)日本赤十字社幻燈演述: 国立国家図書館デジタルアーカイヴに『赤十字幻燈演­述の要旨 ­石黒忠悳述­ 3版』が登録されている。 (原資料の出版­事項: 日­本赤十字社­ 明30.­3 189­7) インターネットからも閲覧が可能。 私事だが、赤十字安全奉仕団柏崎分団に所属しており、昨年、地元の新潟産業大学の学園祭に参加した折、この一部が赤十字のプレゼンテーションに収録されていた。 現在でも、この史料はかなり使用されているのだろう。
(注2)敵負傷するや我兄弟也: このローマの格言、探してみたが見つからない。 ご存知の人があれば、ご教授下さい。
(注3)島津忠恒: 初代薩摩藩主。

 特にコメントも無い。 ただ、先日、石黒忠悳の出身地である現在の小千谷市立図書館に、文献資料に付いて問合せたところ、ほとんど無いと云う話しに驚いてしまった。 石黒忠悳は、立身出世後も、郷里に対する思いは強く、多くの同郷人を援助している。 確かに、生れは現在の福島県(旧伊達郡梁川)だが、『懐旧九十年』を読むと、信州松代の佐久間象山を訪ねた時、自分の12代の先祖・石黒左近忠理(タダミチ)が上杉景勝から拝領した刀の鍔に刻む文字揮毫を願い、佐久間象山も、自分の先祖も越後の勇将・齋藤下野守なのだから、共に先祖が上杉氏に仕えたのだと聞き、19歳の忠悳がそれを喜んでいる様子が伝わってくる。 『懐旧九十年』には、越後に対する郷土愛を窺えるところが随所にあるのだ。 もっと、地元でも見直されることを期待したい。

Best regards
梶谷恭巨

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『况翁閑話』(9)-東西風俗の別

 西洋諸国と我東洋とは、風俗習慣異なるもの多し、近く例すれば、東邦にては食するに語らずとて、食事の時は無言をよしとす、西洋にては、食卓に向おては絶間なく、隣椅子又は向椅子の人と談話するを礼とし、黙して食えば実に無愛想の人となす、又室内の飾の如きは、あらゆる飾品を陳列して並べ立るを常とす、我邦にては、床間にも、掛物、香炉、花瓶位とし、他は何も飾らず、但し今日の置物幅物は、明日替え、明後日は又替え、三日つづけて来る人は、三日毎に別の品を見せ、別の品を飾付け、三日ながら眼を新にするをよしとす、名は忘れたが、英国の婦人某の日本紀行にある、日本に行き、日光に遊びし時、上等の日本旅店に投宿し、上等の室を好みて入りたるに、室内に一幅のかけ物と、其前に一輪の椿花を生けた花瓶而巳(ノミ)にて、何一つ無く、誠に幽寥を窮めて、恰(アタカ)もあき家に宿りし心地がした、然るに其隣室も之に属しありて、其室にて衣かえ化粧をなし、此幽寥の室は、客を誘引(サソ)うか、又は独座日を消する室なるが、一日二日と立ちて見ると、此幽寥の妙味を覚え来り、外出して帰り来ると、折々床の間の置物がかわり、花生の花や花瓶もかわり、遂に得もいわれぬ妙意が生じ、日光を出でて横浜の欧風ホテルに着せし後、ホテルの上等室なるいろいろの粧飾がいかにもうるさく覚え、却て日光旅宿の幽寥の室を思い出した、今にも其味を記憶して居ると、此所が東西各々の特色だ、併し今日の我邦は昔日と違うから、日本の風を失ずして彼の善き風を取るが必要だ、西洋食卓で無言で居るは困るし、日本坐敷へ靴で上り込れても困る、此所が肝腎の考え所だ。 政事にも、軍事にも、将(ハタ、マ)た商工業にも、此コツ合が、肝腎の工風所だよ。

評曰、先生元来韵致高し、東西の風俗を見るに他の凡眼と異り、結果時勢の変に応ずる真致を説得て切なり矣。

(注)英国の婦人某の日本紀行: 英国の婦人某とは、イザベラ・L・バード(Isabella Lucy Bird)のこと。 1831年10月15日、北ヨークシャー州ヨークの北西21kmの小さな町・バローブリッジ(Boroughbridge)に、英国国教会の聖職者の女として生れ、1904年10月7日、スコットランドのエディンバラで没した。 子供頃は病弱だったようだが、心因性のものであったようだ。 原因は家庭環境にあったのか、彼女の本当の望は旅行あるいは道の世界への憧れであった。 1854年、父から100ポンドを貰い、それを使い果たすまでという約束でアメリカの親戚を尋ねた。 帰国後、またしても旅行に対する憧れがストレスとなり、悶々とする生活を送っていたが、1856年、「The Englishwoman in America」を出版した。 以後、カナダやスコットランドなど国内旅行をしていたが、1868年、母親の死後、姉妹であるヘンリエッタ(Henrietta、愛称Henny)と暮すが、その生活スタイルに堪えられず、1872年、先ずオーストラリア、ハワイへ旅行、ハワイではマウラロアに登り、女王エンマを訪問した。 その後、米国に渡り、コロラド州へ、1873年にはロッキー山脈800マイルの縦断旅行を行った。 この時に姉妹ヘンリエッタへの手紙が「Leisure Hour」という雑誌に掲載され、後に「A Lafy's Life in the Rocky Mountines」として出版された。 一旦、エディンバラに帰り、医師・ジョン・ビショップに求婚されるが、旅行への思い忘れられず、日本、中国、ベトナム、シンガポール、マレーシアなど旅する。 1880年、ヘンリエッタがチフスで死亡、最愛の姉妹を失った彼女はビショップと結婚したが、1886年、夫ビショップが死去、健康状態が悪化したが、本来の旅行愛好家としての本能か、還暦近くになって、医学を学び、健康回復のため宣教師としてインドに赴く。 1889年、インド、その後、チベット、ペルシャ、クルディスタン、トルコを訪問、翌年には、英国の軍隊と共に、ロンドのヘンリー・ウエルカム社と提携して調査の傍ら、リボルバーと医薬品を携帯し、バクダッドからテヘランを旅行、1892年には、女性として初めて王立地理協会のメンバーとなり、1897年には、最大の旅となる中国の揚子江、漢江沿いに旅行、更に韓国へも足を伸ばした。 最晩年には、更にモロッコを旅行し、ベルベル人のスルタンから贈られた黒毛のスタリオン(雄馬)に梯子を掛けて乗るなど、人々を驚かせたが、73歳の誕生日を間近にした1904年10月7日、エディンバラで没した。
 来日したのは、明治11年(1878)、47歳、最初の極東旅行の時だった。 况翁が読んだのは、1880年に出版された、その時の紀行文『Unbeaten Tracks in Japan (日本奥地紀行)』ではないかと思われる。
 尚、彼女の主な著作は次の通り:
The Englishwoman in America (1856)
Pen and Pencil Sketches Among The Outer Hebrides (published in The Leisure Hour) (1866)
The Hawaiian Archipelago (1875)  『イザベラ・バードのハワイ紀行』
The Two Atlantics (published in The Leisure Hour) (1876)
Australia Felix: Impressions of Victoria and Melbourne (published in The Leisure Hour) (1877)
A Lady's Life in the Rocky Mountains (1879)
Unbeaten Tracks in Japan (1880)  『日本奥地紀行』、『イザベラ・バード「日本の未踏路」完全補遺』
Sketches In The Malay Peninsula (published in The Leisure Hour) (1883)
The Golden Chersonese and the way Thither (1883)
A Pilgrimage To Sinai (published in The Leisure Hour) (1886)
Journeys in Persia and Kurdistan (1891)
Among the Tibetans (1894)
Korea and her Neighbours (1898)  『朝鮮奥地紀行』
The Yangtze Valley and Beyond (1899)  『中国奥地紀行』
Chinese Pictures (1900)
Notes on Morocco (published in the Monthly Review) (1901)

 この回については特にコメントも無いのだが、寧ろ、况翁・石黒忠悳が、バードの『Unbeaten Tracks in Japn(日本奥地紀行)』を読んでいた、あるいは知っていた事に興味が湧く。 ただ、明治11年12月18日、19日の読売新聞にバードの事が紹介されているので、(但し、誤報が多いとか)、その事が記憶にあったのかもしれない。 また、『Unbeaten Tracks in Japn(日本奥地紀行)』の出版に当っては、ダーウィンの勧めがあったそうだ。 これ等のことについては、弘前大学の『弘前大学大学院地域社会研究科年報(2004年)』に掲載された、齋藤捷一・高畑美代子両氏の論文「記録・文献で辿る(読む)イザベラ・バードの『日本奥地紀行』-矢立峠、碇ヶ関と碇ヶ関の人々-」及び研究ノート「イザベラ・バードの描いた碇ヶ関と子どもと遊び」に詳しい。

 序でに、蝦夷地なども旅行していることから、日本初の人類学者(解剖学者)である小金井良精との関係の有無を調べていたが、それらしき記述は見つからなかった。

 しかし、このイザベラ・バードという人物には驚いてしまう。 何歳の頃は不明だが、肖像画を見ると、意志の強そうな中々の美人である。 そのバイタリティを肖像からも窺えて、とても心因性とは言え病弱とは思えない。 足跡を見れば、インディー・ジョーンズの女性版が出来そうである。 映画になったことは無いようだが、1982年、劇作家キャリル・チャーチルが、『The Top Girls』という演劇で、彼女のキャラクタを採用しているようだ。 この方面には疎いので、何ともコメントの仕様がないが、尚更に興味が湧くのも事実である。

 尚、私事だが、来週から入院する。 インターネットが使えればよいのだが、さてどうなる事やら。 よって、暫らく休刊する事になりそうである。 御容赦。

Best regards
梶谷恭巨

『况翁閑話』(8)-記事容易ならず 附如燕

 老人の話は、拙(マズ)くとも趣味多きものあり、若年者の話は、巧みにても趣味少きが常なり、何となれば記憶したることは一部を忘れても甚だしく事実を誤らざれども、経験なき想像は時として途方もなき誤謬を語ることあればなり、然れども其話を聞く者も、また経験なき者なるときは、此誤謬を悟らず趣味を解せざることあり、例えば近頃の小説に所謂実験なき人の物したるを見るに、幕府の末造の記事に志士が当局の高き有司を訪(オトナ)い、時事に就て議論を上下し、双方意気激し、互に傍の刀を引寄せ、鯉口を緩(クツ)ろげたりと記し、挿画にも其状を図するものあり、今の人は之を読みて或は然らんと信ず、然れども苟(イヤシ)くも其頃士人邸内の礼法を知る者は、忽(タチマ)ち其の無稽なるを笑う、其故は、志士彼の浪人諸生輩が旗本の有司の家を訪う時は、刀は玄関にて脱し、脇差は使者の間にて脱し、応接の室には、同輩にあらざれば脇差をさした侭とか坐傍に一刀だも有るべき筈無し、此類の事甚だ多し、故に若き人など近時にても自己の実験実視せざる事を、語(カタリ)もし書きもするには、余程注意せぬと、一点の誤にて全部の価値を下げる事あり、併し此の経験とか実験とかは一朝一夕に得らるゝものにあらず、是れ老人にも亦値打ある所なり。 所謂講談師の講談を聞くに、殿中の事抔(ナド)は如燕(ジョエン)のが一番よろしかった、如燕は若い時に上野の坊さんで、殿中へも出る事があるし、諸侯の邸中へも出入し、諸侯にも侍した事がある、此実験があるからだ。

 評曰、僅に数冊の書を読み僅に一二の談を聞き直ちに筆を執て冊子を作る者、世間小説家と称する輩中まゝ之あり、蓋(ケダ)し先生の冷眼、此に透り、此小言を吐るゝならん。

(注1)趣味: おもしろみ、おもむき (漢語林)
(注2)実験: 実地の経験 (漢語林)
(注3)無稽: よりどころがない、でたらめ、「荒唐無稽」 (漢語林)
(注4)有司: 役人、官吏 (漢語林)
(注5)所謂講談師: 「所謂(イワユル)」を冠して「講談師」と言っている所から、况翁は「講釈師」という言い方に馴染んでいたのではないだろうか。 篠田鉱造著『明治百話』(上)、当時、桃川如燕と並んで二枚看板と称された松林伯円の事が「松林伯円の一生」と題して書かれている。 ここには、「講釈師」とある。 况翁の時代(幕末か明治初年)、江戸あるいは東京では、「講釈師」が一般的な呼称であったことが窺える。 明治中期に講談が黄金期を迎えるそうだから、その頃には、「講談師」という呼称が一般に広がっていたのかも知れない。 因みに、松林伯円は、維新前後、元下館藩(現・茨城県筑西市)の藩士の家に生まれ、後に、井伊掃部頭(カモンノカミ)の下級家臣・若林氏に養子となり、若林駒次郎と称していたが、小間物屋の娘婿になり、講釈好きが高じて宝井馬琴の父・琴調に入門し、調林と名乗っていたようである。
(注6)如燕(ジョエン): 初代・桃川如燕、本名・杉浦要助、天保3年(1832)6月-明治31年(1898)2月28日、江戸根岸宮永町に生まれる。 後、二代目・燕国を襲名した。 あるいは、二代目・如燕、本名・齋藤嘉吉、慶応元年(1866)-昭和4年(1929)9月30日、落語家一家(麗々亭柳橋)の次男に生まれ、落語から講談に転じた。 文脈から推測するに、この場合は、初代・如燕と思われる。

 「最近の若いもんは」という言葉が思い浮かぶ。 世の中が急変すると、得てして世代間の乖離が始まり、頂点に達すると断絶が生じる。 何時の時代も同じなのだろう。 同じものに、別の名前をつける。 あれもこれも変えなきゃならん。 何でもかんでも、カタカナ表現記。 それでいて本来の意味は何処やら。 マニフェストと公約の違い、何処が違うのかとは、庶民の真意。 それでも、流行だから「マニフェスト」なのだ。 とあま、そんな会話が聞こえてくる昨今である。

 ところで、この本が出版されたのが明治34年11月、この年、况翁は、57歳なのである。 石黒忠悳は、明治27年(1894)6月5日付で、日清戦争の勃発に伴い大本営野戦衛生長官、同29年4月1日、復員、同30年9月28日より休職、同34年4月17日、予備役編入。 この年の1月頃、東京市の助役・吉田弘蔵(第三代助役、市長は初代・松田秀雄、議長は星亨)から、懸案事項であった「日比谷公園」の造園に対するアドバイスを求められ、その後、この計画に参画している。 当時の年齢からすると、どうなのだろう。 一線は引いたものの、况翁の経歴からすれば、まだまだ働き盛りである。 しかも、昭和16年4月26日、97歳で没することを考えると、この達観は、何処から来たのだろう。 考えさせられてしまう。

 因みに、前後するのだが、明治34年2月に『况翁叢話』が「民友社」からも出版されている。 本来なら、こちらを先にすべきだったのだが、最初、博文館の大橋佐平との関係を調べていたので、前後した次第です。 また、同様の出版物としては、大正13年8月に「実業之日本社」から出版された『耄録』がある。 現在のスピードでは、何処まで掲載できるか未定だが、いずれ、これらについても『資料編』に収録したい。

Best regards
梶谷恭巨

『况翁閑話』(7)-他人の思うにまかす

 明治三十年四月三日朝雨ふり十時頃止みたれども、道頗る泥濘なり、此日両国中村楼に書画骨董の展観会あり、往て見んとて高足駄(タカゲタ)を履き出掛たるに、両国橋手前より数々知人に逢えり、其一人の曰(イワク)比泥路梅荘に山花余香を尋ねらるゝか、答曰(コタエテイワク)然り、次に逢うたる一人曰此雨中本所正午の茶醼(チャエン、茶会)に赴かるゝか、答曰然り、次に逢いし一人は曰雨中青柳楼の百美人を見らるゝか、答曰然り(此日青柳楼に百美人会開かれありたり)、最終に中村楼より七八間手前にて逢うたる一人は曰中村楼の展観会に赴かるゝか、答曰真(マサ)に然り、さて僅に四丁許(バカリ)の所にて四人の知人に逢うて四種の判断を受け、其的中したるは最終の一人のみなり、一人には風流人と見られ、人には茶人と見られ、又一人には粋客と見らる、若し十人二十人に逢はば十種二十種別々に見らるべし、世事総て此の如し、他人が如彼(アア)思うとか、又は如此(コウ)思うとか心配するは、真に無益の苦労というべし、此の如き事に苦労せずして、一に己の所信を行うこそ肝要なれ。

 評曰、先生他の毀誉を以て意に介する人にあらず、他人愚と喚(ヨ)ぶ答曰愚也、人賢と喚ぶ答曰賢、而して其盛名と共に之に其心を疑う者、亦まゝあり、高名を誹讒(ヒザン)するは下人の通情、況んや先生他人の踏まざる高きを踏む人、其心を知る者鮮(スクナ)し、宜(ヨロシキ)なる哉此言。

(注1)中村楼: 明治中期頃、再開された美術品の取引によく使われた料亭(旧・伊勢平楼)。 後、売りに出された時、東京美術倶楽部が、美術商専用の建物として買取り、明治40年4月、株式会社東京美術倶楽部が設立された。 (『東京横浜電話交換局加入者名簿』によれば、明治28年現在本所区元町一、電話758番)
(注2)梅荘: 詳細不明。 ご存知の方があれば、お教え頂きたい。
(注3)本所正午の茶醼(チャエン): 本所松坂町の吉良の茶会(忠臣蔵)に因んで、宗偏流第八代宗家・山田宗有宗が宗偏流普及の為に始めたと云う「義士茶会」のことか。 因みに、山田宗有は、通称・寅次郎、オスマントルコとの民間交流の開祖とも云うべき人物で、実業界にも手腕を揮い、後の王子製紙を創った。
(注4)青柳楼: 前掲『東京横浜電話交換局加入者名簿』には、記載がない。 ただ、調べてみると、浮世絵に「青柳楼」が出てくる。 文久三年(1863)に国貞作『青柳楼上小てる』、慶応三年(1867)に国貞作『青柳楼梅吉』などある(東京都立図書館データベース)。 また、インターネット上に、旧会津藩士が数百人集って親睦会を開いたという記事があるが、詳細不明。
(注5)百美人会: 明治24年(1891)7月、浅草「凌雲閣」(浅草十二階)で「百美人」という有名芸妓百人の写真を集めた展示会が開催された。 その後、同様の催事が流行したそうだが、「青柳楼の百美人会」に関しては不詳。 ご存知の方があれば、お教え頂きたい。

 况翁・石黒忠悳の人となりをよく顕わしている。 翁の自伝『懐旧九十年』によれば、両親が質実剛健を絵に描いたような人で、一人息子である况翁の武士としての教育には、既に廃れようとしていた武士道の何たるかを髣髴さえるものがある。 しかも、父を早くに亡くし、良妻賢母の鑑のような母親に育てられるが、その母も14歳の時に他界。 そうした家庭環境と境遇があった所為か、幼少から独立不羈の人。 例えば、母の没後、信州中之条の叔父の家にあった頃、思い立って一人江戸に登ると云い、数両の旅費を持ち出かけたのは良いが、追分の宿で、知合った勤皇の志士・大島信夫と意気投合し、誘われるままに京に上り、揚句の果ては、幕吏に追われるなど、とても15歳とは思われない行動が見える。 時代が前後するが、父の没後、当時としても早めの元服をし、手代見習いとして出仕している時、江戸の大暴風が起こり、出勤の途中、森下町(家屋材料商の多い町)で、屋根板や屋根釘を沢山並べているのを見て、屋根釘の需要を直感し、手持ちの金の内一朱をはたいて、屋根釘を買うなど、13歳とは思えない発想と行動力。 もっとも、この事が、武士としてあるまじき事と母親の勘気に触れ、あわや勘当。 この母の教訓で、「一生金銭利欲のことには立ちさわらん」と誓い、事実、事業など営利の事には一切拘らない姿勢を貫いている。

 况翁・石黒忠悳の人生には、幼少から何処か飄々とした雰囲気がある。 強いて言えば、いたずらっ子が、そのまま大人になったのではないかと思うほどだ。 だから、『懐旧九十年』を読んでも、立身出生し、栄華を極めた他の同時代人の自伝には無い爽やかささえ感じる。 私なんぞが言う事でもないが、学者や技術者の手本とは、当に石黒忠悳ではないかと考えるくらいだ。 『懐旧九十年』は、その意味でも、お奨めの一冊である。

Best regards
梶谷恭巨

『况翁閑話』(6)-悪る口の巧拙

 世の中に売らんとするには、成るべく激しく悪口を書くことが妙である、去りながら悪口にも上手下手ありて、巧みに悪口を言う者は、多言を費さずして急所に中り、言はれたる方にては甚だ痛く感ずれども、言い廻しの旨い為に怒ること能わず、唯だ空しく頭を掻いて苦笑するばかり、之に反して拙き悪口は、讒謗怒罵(ザンボウドバ)の限りを尽せども、徒らに他を怒らするのみにて他を困しむるの効は甚だ少ない、近来各社とも若手の記者には健筆家が多く、縦横無尽に弁難攻撃し、一歩も仮借せざるの意気込にて、筆鋒鋭利当る可らざるが如きも、惜い哉未だ世故に慣れず、故に攻撃の肯綮(コウケイ)を外れ、短刀を胸間に擬するの妙味を欠く、其所に至ると故成島柳北翁や、今にも福地桜痴翁等は流石は老練なるものなり、賞するが如く嘲けるが如き間に妙に人を愚弄し、紆余曲折に攻撃を加え、真綿で頸を締めて遁(ノガレ)るに道無らしむ、之を譬うるに、斉(ヒト)しく無心の請求にても、玄関より大声を発し、巨杖を握りて迫り来る壮士には、主人障子の中に在て、杯を持ちながら笑って聞き流すことが出来るが、之に反し、勝手口より猫撫声で、主人の在否を尋ね来る奴には、時として、南無三方彼奴来れるかと、忽ち眉を顰(ヒソ)むることあり、前の高声疾呼(コウセイシッコ)に対し、牛の角を蚊の刺す程にも感ぜざる者が、後の猫撫声をは畏るゝわけは、全く先方が求むるに其道を以てするの巧拙による次第にて、世の中の酸いも甘いも嘗め尽したる苦労人の価値は、斯う云う場合に見ゆるものだ、悪口の巧拙も之と同じである、畢竟鉄拳を頭上に加えたる後には、一寸真綿を其の臋下(デンカ、臀と同じ)に当てがい、声を励(ハゲ)しくして叱りたる後には、軽く掌を以て其の背を拊(ナ)ず、是れが擒縦殺活(キンショウサッカツ)の術にして、実に悪口の秘訣だ、此事は特に新聞雑誌の記事に於て然るのみならず、苦言を以て、一針を他の頂門に加え、怖れて怒る能わず、狎(ナ)れて侮る能わざらしむるの心得は、何人も世に処するに必要のことなるべし。

評曰、人を擒(トリコ)にするの術ありて、人に擒にせられざるの実あり、世人先生を擒にせんとするもも多きも、先生元来胸中此甲兵あり、世人之を擒獲し得ざる宜なる哉。

(注1)讒謗怒罵(ザンボウドバ): 讒謗[三国志魏志、王列伝、注]あしざまに言って人をそしること。 誹謗。 【讒謗律】1875年(明治8年)新聞紙条例と共に明治政府によって公布された言論規制法令。 自由民権運動の展開に伴い、政府への批判を規制するための条例で、著作類を用いて人を讒謗する者を罰した。 (岩波、広辞苑)
(注2)肯綮: 肯は骨についた肉、綮は筋肉の結合したところ。 牛などの肉を切り離すとき、刃物がここにあたればたくみに切り離せることから、転じて、物事の急所・要所をいう。 (広辞苑)
(注3)成島柳北(なるしまりゅうほく): 天保8年(1837)2月16日-明治17年(1884)11月30日、漢詩人、新聞記者、随筆家。 名は温、のちに惟弘(コレヒロ)、甲子太郎、のちに甲子麿と称した。 江戸浅草に生れた。 幕府の儒官成島稼堂の子、8歳で和歌集を著し、19歳で家督を継ぎ、祖父・成島東岳著『東照宮実記』500余巻の編集を監修し、父・稼堂の『後鑑』375巻の訂正を行う。 著書に『柳橋新誌』がある。 文久2年、風刺詩が忌諱に触れ閉門、この間、英学を学ぶ。 慶応元年、幕府の兵制改革行い、歩兵頭並に任じられ、禄千石を給せられた。 同年、騎兵頭、二千石に加増したが辞職、慶応4年、外国奉行、三千石加増、大隈守、会計副総裁、徳川慶喜の総裁辞任にと共に、隠居した(33歳)。 明治7年、「朝野新聞」社長。 (新潮社日本文学小辞典参照)
(注4)擒縦殺活(キンショウサッカツ): 捕えたり許したり、殺したり活かしたり、自在に操り扱うこと。 (広辞苑)
(注5)一針を他の頂門に加え: 頂門一針、(針は鍼とも書く)頭のいただきに刺した一本の針。 人の急所をおさえる、きびしいいましめのたとえ。 同義に、「頂門金椎」、「頂門鍼」 (大修館、漢語林)

 今回は、意外にストレートな問題。 悪口とは書かれているが、寧ろ「諧謔」ということが主題だろう。 常日頃、「諧謔」を心掛けるのだが、さて、文章にするとなると、これが中々難しい。 諧謔の達人チェスタートンの翻訳を試みたこともあるが、中断のまま。 福地桜痴は、同じ資料編に『もしや草紙』を掲載しているが、こちらは、原文の印字の劣化と字の細かさで、天眼鏡でも使わなければ読めない始末。 「諧謔」の本質あるいはその書き方など勉強する積もるが、それ以前の問題で四苦八苦の始末である。

 そう言えば、最近、腹の底から笑えるような文書にお目にかかっていない。 読方が足りないのか、あるいは、事実、そうした小説なり戯曲なりが少ないのか、なんだか寂しい思いもする。 昔、井上ひさしの『モッキンポット師の後始末』という小説を読んだことがあるが、これには、それこそ腹を抱えて笑ったもだ。 それに、青島幸男の『塞翁が万事、丙午』だったか、これも愉快な小説だった。

 明治時代には、意外と「諧謔文」が多いようだ。 江戸の諧謔文の流れを汲むのかもしれないが、時代が、「諧謔」を要求していたようにも思われる。 今のご時勢は、果して、どうだ。 お笑いタレントの全盛時代だが、今ひとつ、腹の底から笑えない。 ユーモア小説もあるのだろうが、とんとお目に掛っていない。 書けるものなら、そんな文章が書きたいものだ。

Best regards
梶谷恭巨



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