江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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歌舞伎の知識が無いので、詳しい事は判らないが、七代目は襲名したが舞台に上がらず死去、六代目は、後に八代目・市川団十郎を襲名しているので、况翁は団十郎と書くだろう。 また、五代目ならば逸話も多いので、五代目かも知れないが、後に七代目・団十郎を襲名しているので疑問。 詳しい方があれば、ご教授願いたい。 社会に出て最初に与えられた仕事が、医学用語のシソーラス創りだった。 受験の為、偶々ラテン語を勉強し、大学でドイツ語を学んでいたのが、その理由だったようだ。 以降、長く医療システムに係る事になるのだが、医療関係者と付き合っていると、様々な場面に遭遇するものだ。 特に、医師という職業は、大変な職業である。 365日、常に医師であることを意識しなければならない。 それもあるのだろう、大抵の医師は強烈な自我の持ち主が多い。 システム屋として接していると、時に、その強烈な自我に遭遇する。 新潟でも最大規模の病院から病歴管理システムの導入に関する相談があった。 院長にお会いして話を聞く。 医療システムに関して滔々と話される。 それが一時間以上も続いた。 システム屋の基本がユーザーの話を聞く事だと承知していても、もう辟易。 「先生、そこまで勉強しておられるのなら、システム屋は不要です」と云い、同行の営業に、「失礼しよう」と言った。 「ちょっと待ちたまえ」と言われ、さてどうしたものかと考えたが、仕事は仕事である。 そこで、自分の経験と知識から医療システム論をぶちまけたのである。 結果、システムを構築する事になったのだが。 少々本題とは異なるが、忠告というものは、いくら誠意を以てしても、先ず相手を知っていなければならない。 当に孫子の「敵を知り、己を知らば百戦危うからず」である。 会話でもそうだが、先ず聞き役に廻り、「始めは処女のごとく、終わりは脱兎の如し」で、言うべき事を言うのが最良の策だ。 酒を飲むと、この箍(タガ)が外れる。 心しなければならない。 自戒を込めて、今回の題目を考える次第である。 Best regards (18)-少年学生鑑定法 余は書生を愛し、世話をして就業せしめし者も沢山あるが、さて大成し又大成せずとも、せめて一人前になりて、家に出入りする者は誠に少く、十人に付二人とも当らぬなり、必竟余の眼力鈍くして人を見るの明あらざるに因るといえども、又一ツには涙もろく欺くに道を以てせらるるによるなるべし、併(シカ)しだまされて私財を取らるる結果は女にだまされて金を取らるるよりも、書生にだまされて金を取らるる方が余程馬鹿げて居るから、如此事は内々だ、ここに思出したる逸話あり、昔年桂川家の塾に在塾並に通学の洋学書生が沢山ありしが、年久しく此塾に居る老僕に信蔵という者あり、此信蔵が必ず成業すべしと見留たる書生に、一人として成業せぬ者なく、人皆其明識を感心したり、一日桂川先生が信蔵を招き、汝はいかなる方法にて書生を鑑定するかと尋ねられしに、信蔵曰く是はわけもなきことなり、下駄傘を必ず返す人が必ず成業するなり、他に鑑定の法なしと(その通学の人ならば、俄雨の時塾から下駄傘を借りて家に帰り、其翌日必ず持来りて返す人、又在塾生ならば外出して雨に逢い、他家にて下駄傘を借用し来り、其翌日必ず返しに行く人なり)、信蔵の此言実に肯綮(コウケイ、骨に肉がはまりこんで、骨と肉が結合している所。 そこに包丁を当てれば、肉を骨から切りはなすことができるので、物事の急所、重要な点の意に用いる。 中肯綮、物事の重要な点をおさえるの意)に中れりというべし、人を見るには大事に於てするよりも、寧ろ小事に於てすべしとは古人も謂えり、余や桂川の老僕信蔵に及ばざること遠し。 評曰、胸に一定の則あり、以て人を見るに足る。 若し臨時の奸悪を見て人を見は、今日の賢者明日の愚者ならざる者、盖(ケダシ、蓋)鮮(スクナ)し桂川氏の僕の談、先生の聞を得て人を見るの準備となる、亦幸と謂う(「つ」とあるが誤字だろう)べし。 (注)桂川家の塾: 桂川甫周のことか。 四代目・桂川甫周は、桂川家三代目・甫三の嫡子として、宝暦元年(1751)生まれ、名を国瑞(クニアキラ)、通称を甫周、号を月池・公鑑・無碍庵、字を公鑑といい、文化6年6月21日(1809年8月2日)に没した。 七代目・甫周は、文化9年(1826)に生まれ、名を国興(クニオキ)といい、明治14年(1881)9月25日に没している。 年代から観るに7代目・甫周ではないかと思われるのだが、『懐旧九十年』に記載が無い(見落としているのかも知れないが)。 さて最近では、「書生」という言葉自体が死語なのかもしれないが、私が学生の頃は(40余年前)、未だその意味を成していた。 後に衆議院議長を務めた養父は、ことに書生を好み、狭い借家住まいにも係らず学生の出入りには常に寛大で、書生部屋なるものを設け、時には声を掛け、「勉強しとるか」といったものだ。 学生運動が激しい時代で、学生といえば、皆、全共闘かといわれた時期だ。 警察からは警備上、責任が持てないと、何度も電話が掛かった。 それを云うと、血相を変えて怒った。 「若い者が出入りしないような家は政治家の家とは言えない」と。 文部大臣の頃、最寄の警察署から直通電話を設置してもらいたいと言って来た。 「そんなものは要らん」の一言である。 それでも警告の通報は入ってくる。 「駅前に数十名の学生が決起集会を開いています。 ご注意願います」と。 家には養父母と私、それに住込みの書生しかいないのだ。 「ほっとけ、何百人でも来ればよかろう。 狭い家だから入れんかもしれんな」と、こうんな調子なのである。 「どうも最近は、書生を下僕くらいにしか考えない輩が多すぎる。 自分が若い頃は、皆、書生とは有為の若者と考えて、大事にしたものだ。 今の時勢じゃあ、学生諸君が騒ぐのも致し方ない。 騒ぐ前に議論をせにゃならん。 それが今は無い。 それがいかん。 そういう学校を創らんといかん」と。 その意味もあるのか、故郷の山に因んで、号を「陀峰」と号したが、私が聴いた所では、「陀羅尼」の「陀」と「峰」は「泡」で、知恵の泡なのだそうだ。 ある時、「それをやる」といい、文机にあった色紙をもらった。 「お前は、王維が好きだったなあ」と付け加えて。 すなわち瓜園詩の「素懐在青山、若値白雲屯(素懐は青山に在り、もし値すれば白雲に屯す)」だった。 その当時は、その真意が解らなかったが、意に沿わぬ政争に嫌気がさしていたのかも知れない。 何だか本論から逸脱してしまったが、昔のことを思い出してしまった。 ご容赦。 因みに、前掲の王維の詩の全文は、次ぎの通り: 瓜園詩并序(王維集頁一三) (17)人巧はとても天巧に勝たず 我々人類は、自分免許とはいうものの、人は万物の霊などと称して、宇宙間に二ヶつなき霊妙達智の性を具有し居り、おさおさ天巧をも奪うに至るべしなどと思い居るは、人も吾も皆同じ、総て他人の工風して造りたる物、又は研究したる事を見聞して、其欠点を見出し之に改良案を加うる等は、随分容易のものなるが、之に反して天地間自然の成規所謂(イワユル)彼の天巧即ち天然に比すれば、人智は何ともいうべき様なき浅薄なるものなり、然るに世間には人事を尽して天明を俟(マ)つではなく、人事を尽して天命を増すだなどと唱え、又今にても或る一派の人々は、此分にて学術進歩し行かば、千万年の後には、何事も人巧にて作為し得て、完全無欠の世界となし得べしなどと思うはいかがあるべきか、予の考えには、とても人巧というものは一毫も天巧を増損し得べからざるものなりと思う、其一例は人の顔面なり、余は見らるる通り幸に全身何所(ドコ)一所不具の所なきも、六歳にして重き疱瘡(ホウソウ)に罹り、父母の劬労(クロウ)にて幸に一命は助りしも如此痘痕顔(アバタガオ)となり、故に若き時より今日に至るまで、どうか少しも美男美貌になり度(タ)しと、其妙法はなきや、奇術はあらざるかと、常に心配そたりしが、今に見出さざりし、そこで近日ふと考え付き、此の如き小修飾では、天神若し余に天下の人の顔面をして自由に変造改善するの権能を假(カ)されなば、いかに改善すべきやとの考案を立て、新柳二橋の美人の写真、若しくは有名俳優の写真、若しくは所謂大政治家大豪傑方の写真等を、勧工塲にて平均一銭五厘づつにて請求し一覧して種々考えたるも眼を堅(竪の誤りか、タ)てに直すこともならず、耳を増することもならず、到底一点も改造すべき箇所を見出すこと能わざる也、於此(ココニオイテ)か人巧は僅(ワズカ)に天巧の百万分の一を補うも、決して其幾分を足すに足らざるを悟れり、世間改良改良と唱道する声、顔面改良案あるや否や。 評曰、廿世紀の今日学術の進歩著く電光暗を照して日夜なく火力船車を走らせて遠近なし然れども一の天巧を補うに過ぎず況や其他の浅河の学を衒(テラ)うて世を軽視する輩に頭上の一針。 Best regards 『况翁閑話』(16)-能を取て不能を捨てよ 人々皆な皆な見る眼が別々だから、人を見ても其所感が異なるは当然じ。 余は中年には随分悪を憎むこと甚だしく、例えば書画に於ても、趙子昂は書はいかにも上下五百年に無き能書なれども、其気節に至りては実に柔且卑にして、たとえ其書は能美なるも、机上に置き壁に揚げて賞すべきにあらず、岳飛の書たる固より能と称するに足らず、又則(ノット)る可からざれども、其気節凛烈(リンレツ、凛冽)情夫を起たしむにるに足る。 其書の如き啻(タダ)に壁に揚ぐる而巳(ノミ)ならず、香を焚き花を供して恭しく啓すべしだ、という持論なりしも、段々世故慣れ事に当りて是等の説は所謂偏屈論にして、書を賞するに當ては、たとえ其気節はなくも、書能ならば愛すべし。 其気節の高下を以て其余技たる書を品すべきにあらず。 又人を使うにも、彼人は学術に秀抜なるも、其心術が不充分なる故に云々との事に至りても、元来人物をではなく其技術を応用するというに方(カタヨ)りては、其心術如何の為に之を捨るということはなさざることに到したり、若し気節高烈にして其書美なると、学術深重にして心術方正なるものあらば、無論完備と称すべきなれども、世間如此者殆どなきなり、寧ろ書を撰む時には重きを書に置き、学術を擇(エラ)ぶ時には学術に重きを置くべく、果せるかな近年は学術に優れ高尚なる学位を有する人にても、往々心術気節に至りては実に感伏し能(アタ)わざる人もままありて、若し其心術気節より論ずれば、共に歯(ヨワイ)するを耻(ハ)づべき輩あり、故に此澆季(ギョウキ、人情が薄くなり、風俗が乱れた末世)の世には、偏屈論は止めねばならぬ。 評曰、先生甞(カッ)て陸軍其他内務文部等の局に当る、いつも其従来の人を用いて新に自ら知る人を入れず、而して事務活動し處辨(ショベン、処弁、処置すること)流るる如し、宜なるかな、濶大(カツダイ、広く大きなこと)の見を具して人を使う。 (注)趙子昂: 趙孟頫(Zhào Mèngfǔ、ちょう もうふ、1254年(宝祐2年) - 1322年(至治2年))は、南宋から元にかけての政治家、文人(書家、画家)。字は子昂、号は松雪、呉興(浙江省湖州)の出身。出自は、宋の宗室。 (ウィキペディア) |
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