江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第五回
さしも十余年が其間、欧洲に留学して世の酸苦をも嘗(なめ)たれば、生れ故郷の日本に帰りなば、功名富貴は手に唾(つばき)して得べしと思いたる清水は、此の三四週間の経歴に、東京の社交を一と通り見物いたしたるが、事々物々思の外のと、のみにてありき。 尤(もっと)も西洋に居たる時にも日本では斯くあるべしとは兼て推量したれども、まさか是程とは思わざりき。 上流の部人士には特有の性質と知れたる君子国の名物日本、一手捌きの徳義は、斯く腐敗したりとは思わざりき。 江戸っ子の侠(いさ)み膚(はだ)と云われて三百年間養成したる義侠の気風は、僅かに二十年か三十年間に其痕跡を絶(た)たんとは思わざりき。 義理にも人情にも構わず己れさえ都合よければ何でもすると云う事が開花の当世風なりとは思わざりき。 御髯の塵は積らぬ先に払い、閣下の高諭敬服仕(つかまつ)ると竈にも媚び奥(おう)にも媚び以て栄達の道を計るが、世上の欣羨(尊敬し慕うこと、うらやむこと)する所なりとは思わざりき。 不景気な顔色を持ちながら美人を気取り無闇に男子に向って横柄なるが女権の伸張とは思わざりき。 何事もかごとも皆思わざる外の有様に打驚きては且つ嘆息せしが、ナニモ是しきの事に恐れて男子たるものが其の宿望を空しくすべき、固より覚悟の上なれば、艱難辛苦を凌ぎ通して目的を達するに何かあらんと思い直して、勇気を鼓舞したれども、其の内心の底の底を窺へば、第一等の甲鉄艦が目ざす港に攻め込むに当り、水雷の海中に埋めあるに遭うたるが如きに相違なかるべし。 是にても己(すで)に清水は前途の遼遠なるを覚えたるに、茲に又其心に蟠(わだかま)りたる一種の苦労は叔母のお賢と従妹の乙女が事なり。 東京に帰りてより二十日余り、清水は諸方の知人を朝野の間に尋ねたれど、其話とては、お世事に非ずんば、則(すなわ)ち大法螺ばかり、口と心の裏表、それを誠と思ったら瓢箪から駒、壜子(ボットル)から虎が出ようも知らぬ危(あぶな)い境界。 その席を退(たちの)くごとに、アヽ先ず宜(よ)かったと、ホット太息(といき)を吐(つ)く計りなれば、何会何社に赴くとも、心底より面白いと思う事なく、真に打解けて飾りなしの話とては乙女母子(おやこ)に会うとき計りなり。 然るに乙女母子が朝夕の煙(けぶり)を立兼(たてかね)るを見るにつけ、清水は益々不便の念を増し、何とかして其苦現を助けたきものと諸事の相談に與(あず)かる中に、乙女が姿色(ししょく)と云い才芸と云い申分のない娘ぶりに心を動かし深く恋慕の情を添たり。 一体ならば恋に焦がるゝ思をば押し包んで、穂に顕さぬが男の嗜みと云う筈なれど、清水は中々左に非らず。 恋は曲ものとは誰か言いたる不当の邪語なるぞ。 夫れ恋は高尚なり、優美なり、愛情の由て感発する所なりとて、茲の丈を打明(うちあか)して口説(くど)きたれば、乙女は恥らいながらも素より憎からず思いたる潔が望、ナニガ扨(さて)貴君(あなた)さえお宜しくばと真赤になったる色よき返事。 ソレナラ叔母に相談と出掛けたるに、叔母は娘が為には此上もなき結構な事なれど、卿(おまえ)さんは立派な清水の本家、此方は今は裏店住居(すまい)、提灯に釣鐘、合ぬは不縁の基ね。 御互(ごたがい)の為になりませぬと断られ、失望の至りとはなりはてぬ。 去れども根が当人同士、好き好かれたる中なれば、お袋が少々不承知でも、何の差支あるべき、ソンなら貴君がお身の有附が出来た上は、其時こそ立派な夫婦、夫までは何年たつとも、仇(あだ)な心は御互に、出しはせじと誓つゝ、深く行末を云い替(かわ)したり。 サア斯うなると乙女母子の裏店住居は甚だ以て清水が心中に安からず、如何(いかで)して是を救うべきと、兎つ追つ手段を考えしが、或る日の事なりき、清水は乙女母子を音信(おとづ)れ、容(かたち)を改めて申けるは、時に乙女さん卿(おまえ)さんには兼々(かねがね)伯父さん(潔が父の金作を云う)から遺物(かたみ)を下されてあるによって今日改めてお渡し申すとて、懐中より紙に包みたる一品を取出し、書替の手続は私が直に致して上ましょうと述べたり。 乙女は何品にやと怪しみつゝ、母のお賢と共に包を解て見れば、コハそも何(いか)に整理公債額面七千円の証書、清水潔と記名の品、お賢はあきれて暫し清水が顔を見詰しが、潔さん卿(おまえ)さんは我等母子をば貧乏と侮って馬鹿にする気か、此の公債が何の遺物(かたみ)で御座ろうかと、開き直って証書を押し返したり。 清水は、イヤイヤ戯談(じょうだん)でも無く馬鹿にも致しませぬ。 実の所は父が亡なって後に用箪笥を改めますと、兼て認(したた)め置たる書置の遺言状が御座って、其中に金七千円は我姪乙女へ遣(つかわ)すべし、但し当人十七歳に相成るまでは潔これを預り置べしと認めて御座りますれば、則(すなわ)ち父より乙女どのへ遣しまする遺物(ゆいもつ)、たしかにお請取下さりませイ。 左様で御座いますか、併しそんならナゼお父さんが御隠れなすった時に、其事を御披露下されましなんだか。 夫は卿さんの御都合とした所が夫程の訳なら、どうぞ其遺言状を拝見が致しとう御座る。 御尤もでは御座いますが、其遺物(ゆいもつ)の事を直に披露いたせとは書て御座りませぬから、今日まで猶予しました、且つ其時直に申さぬのが行末を考えたる父の所存に叶ったかと存じまする。 又其遺言状は外に他見を憚りまする義も認めて御座いますれば、お目に掛る事は御免を蒙ります。 そう有ては愈々(いよいよ)疑わしゅう思わるゝ、設(たと)い其日の暮しに困ればとて理(わけ)もないのに大金を甥より貰い受る事は致しませぬと、飽まで受(うく)る色なければ、清水は深く其潔白なるに感じ入り、誠にお立派なお心だて恐入って御座います。 去ながら父の遺言を達しませぬは不孝の恐れ、良しまた遺言状を見ぬとても、伯父の財産を遺物に貰うのは姪の身では当然(あたりまえ)、すでに七年前に定まったる遺物、相続法に照しても左様で御座ります。 父の財産を其子一人で総領いたし、甥姪に分領させぬと云う法は決して無い道理、但し狡五どのへは何とも父より遺言が御座りませんから、左様御承知下されいと、理を尽して諭したれば、お賢乙女は倶に嬉し涙にくれ、コレ全く潔が計いにて態(わざ)と父の遺言なりと申し做(なし)て、其財産を分配せるに違いなし、抑(そもそも)潔が父が不慮の禍に其身を果したる時に、夫(おっと)の山四郎どのが身代を掻回(かきまわ)したる怨(うらみ)さえあるに、其怨をば恩をもて報うる事の有難さよ。 併し此七千円は潔どのよりお預り申たる心得にて大切に致し決して遣い減しは致さぬ、まさかの時には何時でも卿さんの品だから取てお遣いなされよと申述べて受納したりける。 是よりして乙女母子は駿河台の辺(ほとり)に引越し、乙女は女子高等学校に通い、専ら勉強したり。 原来(もとより)子供の折に普通の教育を受け、殊に歌舞音曲の事は天性の長所ならば幾ほども経ずして第一と評判せらるゝ様になりぬ。 今回も特に帰すことは無い。 ただ、ルビが振ってあるとは言え、同じ漢字を様々に読ます所など、当時、漢字の読みや送り仮名、句読点などの文法が標準化されていない状況を知ることが出来る。 また、読者層がどのような人たちであったのか、書誌情報だけでは解らないが、作者・桜痴のように、先ず漢文を基礎とした文化と、江戸時代既に識字率が世界一だといわれた庶民の仮名文化とが入り混じって、こうした文体が生れた、あるいは標準化の過程にあった事が伺える。 このように考える、言語が生き物であると感じるのだが、逆に言えば、それだけに標準あるいは基礎の重要性を痛感する。 先日、NHKのBS1で、中国における繁体字復活に関する討論を放送していた。 インターネット投票による視聴者の投票結果は、繁体字の復活に反対が圧倒的多数だったが(反対約70%)、文字は単なる道具であるとする政府見解に対して、四千年の歴史あるいは文化を継承することは、文字が単なる道具ではなく、その表す所の心、あるいはコミュニケーションそのものを意味すると主張した繁体字復活派の意見には、感じるところ大であった。 因みに、この復活論を唱えた学者は、東京大学で学んだと云う。 これは伝聞に過ぎないが、現在、中国の古典籍が最も多く残り、最も研究が進んでいるのは日本なのだそうである。
明治維新後の廃仏毀釈などの外来物排斥運動で、多くの美術品などが海外に流失したことは知られているが、多くの漢文古典籍が、中国に買われたという事実を知る人は少ない。 その後の動乱で、それさえも失われ、第二次世界大戦後、復、同様な状況が起る。 例えば、司馬光の『資治通鑑』などは、2000万円の値が付いたと聞いたことがあるくらいだ。
数年前(もっと前かもしれない)、歴史的に漢字を使った国の学者が集まり、名称は忘れたがフォーラムが開催され、その一貫として、漢文小説プロジェクトが開始されたと云う。 因みに、参加国は、中国、台湾、韓国、ベトナムではなかったかと記憶する。 その中の一書に、柏崎の藍澤南城著『啜茗談柄(せつめいだんぺい)』がある。 越後奇譚集とでもいうべき本だ。 海外に紹介された数少ない日本漢文小説だ。 日本では、2001年に発刊されたが、既にプレミアが付いているようである。 憶測に過ぎないが、先のTV討論の話を考えると、フォーラム自体先細りしているのではないだろうか。 尚、漢文小説で謂う「小説」とは、叢書あるいは文集というような意味らしい。 こんな事を考えると、古書・古本の電子化の必要性に思い至る。 『あおぞら文庫』の活動に、その意味でも、共感と賞賛を。 強いて言えば、この活動が、地域の歴史に及べばと思うのだが、果たして現状は如何なるものであろうか。 Best regards PR 第四回 なる程、世の中は分らぬものでは有る。 古人も飛鳥川の淵瀬の定め無き(徒然草第25段)に喩たるが、実は其通じゃ。 栄枯その地を変るに従って、其人の心も亦境界に由て変るは、是れ当然のを、余(われ)豈(あ)に独り郡樫蔵を異(あやし)むに及ばんや。 畢竟(ひっきょう)我父の旧誼とか旧恩とか云って、父が曾(かっ)て施したる徳義上の恩義をば恰(あたか)も其子に伝わるものゝ様に思って、報酬の義務は彼人(かのひと)が負担すべきものゝ如くに、心得恃(たの)むべからざるを恃(たの)んだは、我が料見(りょうけん)違いであったよな。 其にしても我が心事をば浮(うか)と郡に物語りたる事の口惜しさよ。 アヽ是が我身に取て善い経歴じゃ。 よく考えて見れば十五年前(ぜん)日本を出た時には、マダ二十(はたち)に足らぬ若もので、言わば丸で日本の事情を知らざる小二歳(こにさい)同前(ぜん)。 それから今日まで十五ヵ年の間は難行苦労に随分世故(せこ)を経たる様なれど、是も西洋の事情にこそ通じたれ、日本はまた日本で格別の事情あるは当然。 いかに日本が政治制度文物社交みな表面(うわべ)は西洋風になったればとて、内部の人情風俗まで西洋に成り切た訳でも無から、ソレデ是からは外国より初めて日本に来た積(つもり)になって、先ず日本の社会を実地に研究し飽まで其事情に通じた上で、徐々(そのそろ)と身を処する計(はかりごと)を立つべしと、清水は心附きたれば、是よりして日本橋の旅館(ホテル)をば暫しは己れが旅寓と定め、学友同年旧知の人々が東京に在るものを尋訪(おとずれ)たり。 其中には、曾(かっ)て東京高等中学にて蛍雪の苦学を倶(とも)にしたるものあり。 又英国独逸仏国の諸邦にて友垣(ともがき)を結びたるものあり。 又その昔菜種(なたね)の二葉より生立ちて竹馬の遊びを倶にし、其後も同じ尋常小学校に入(にゅ)し、ヤレ卿(たまえ)の学校の読本は東京府か、僕(わたし)の学校は文部省だ、僕の方が読本は優等だと教師も仰しゃったれば、僕の学校にお入りよと勧むれぞ、ナンの東京府の方が上等だと教育家の先生が判断ゆえ、僕の方が善いよと言い争いたるものもありて、何れも純粋の心もて交りたる人々なるに十五年を経たる今日に至って此人々を尋ね見れば、或は高等官に昇進し、学術は左までとは思わねど、如才なき取廻しに長官の受も善く、一省に時めきて権威を振える官員となれるもあり。 或は財産も知識も十分には無けれども何(いか)なる由縁(ゆかり)ありてか、東京の議員に選ばれ今では下院の座席を占め、将来の首領(リーダー)は乃公(ないこう)を置て誰(た)ぞやと、空頼(からだの)めに鼻尖(はなさき)を高々とせる議員もあり。 或は算盤よりは掛引き、地道な事では金儲けの出来ぬ世の中、智恵を振って考えたる工夫は常(いつ)も間に合わぬ。 唯々早耳に若(し)くは無し。 是れ見給えやと言わぬ計りで立振舞い、内幕はどうか知らねど会社の創立組合の発起に名を知られたる紳商となれるもあり。 或は職を武官に奉じて天(あっ)ぱれ皇国(みくに)の干城(かんじょう)なりと意気揚々たるもあり。 或は新聞の主筆となって政治の得失を紙上に判断するもあり。 或は代言人となって権義の有無を法廷に弁論するもあり。 或は舞踏の熟練と婦人の接待は此人に限る欧州の本塲仕込だけ格別なりと持囃(もてはや)さるゝ縉紳(しんしん)もあれば、或は彼漢(あのおとこ)の説はいつも迂遠で物の役に立たぬ、お負に不人相な面附が気に喰ぬと可惜(あたら)器量を有(もち)ながら社交に擯斥(ひんせき)せられて鬱々たるもあり。 其境界の区々(まちまち)なる千差万別、ハテ扨(さ)て人間の生涯は耳朶次第、げにや牡丹餅は棚にあり、成敗(かちまけ)は運に在り、阿呆は働け果報は寝て待てと云うがそうかも知れぬ。 コリャ理屈通りには参らぬぞ。 是につけても思い出した事がある。 ライプシヒの大学を辞したる時に、先生(プロフェッソル)が、「清水君ヨ、君は既に修学の期を卒(お)えたり。 日本に帰りなば実地研究の期に入るべし。 其期の苦難は更に修学より一層の苦難を覚ゆべし。 修学せる所を挙げて其身を社会の奴隷となすも又これを利用して社会の先導者たるも、此の研究の如何に関するものぞと知り給え。 君よく此語を記憶せよ。 他日、君が老境に臨み後悔の期に入る時に当り必らず思い当るべし」と哲学上の予言を勿体らしく授けられたるは、即ち今日の事であろう。 いでいで是からは大日本帝国東京の都市(まち)に於て社会の実地研究に尽力いたさんが、夫にしては社会に入り交(まじわ)るが第一の肝要。 少々ぐらい気に入らぬ連中にも附合て見ずば成るまいと、清水は心を定めて流行の社会に入(いり)たるが、其骨の折れる事は一通りにあらず。 葉巻煙草(シガル)に紙巻煙草(シガレット)は否(いや)でも喫(すわ)ねばならず。 西洋骨牌(せいようかるた)のウィストが表座敷で花骨牌(はなかるた)のヨロシイが奥座敷、これが出来ねば懇親が結ばれず。 尤も西洋留学中に少々は覚て来たれば、先ず差支は無し。 殊に舞蹈(ぶとう)ピアノ唱歌乃至お寺の賛美歌、これは拙者が本塲で御座る。 ナニ君たちのは十年前の流行で、今日は瑞典(スウェーデン)の木曾の奥葡萄牙(ポルトガル)の外が濱でも、モウ廃って誰もやり手は無い。 只今の流行は、これ此の通りと幅を利(きか)する事も出来るが、甲(コウ、きのえ)の仲間に交れば、我もそのかみは上界の諸仙たるが、往昔のちなみありて、仮に人間に生れきて、楊家の深窓(楊貴妃に喩えて)に養われ未だ知る人なかりしになどと、調子に乗らぬ道魔声(どうまごえ)を出して、唐人の寝言を日本語で謡(うた)い、其為には梅若(能の観世流梅若家)や宝生(能の宝生流)に弟子入りをせねば相成らざる苦みあり。 乙(オツ、きのと)の連中に交れば、お炭拝見、なる程感服でげす。 是が遠州名物の井戸でげすか、イヤ定家の歌切は恐入てゲズと、狭い数奇屋に四五人も詰込んで、穢(きたな)い茶碗で苦い茶を飲み、主の前では無闇にお世事を並べ、其家(そこ)を出れば無闇に荒(あら)を言わねばならぬ苦(くるし)み。 丙(ヘイ、ひのえ)は、解らぬ癖に骨董をひねくって、是が美術の詮鑿(せんさく)に必要なり、我朝に希臘(ギリシャ)風の彫刻既に千有余載(さい)の前に伝わったると、此仏像の鼻柱が折れたる所にて、其証判然たりなどと評せねば成らぬ苦み。 丁(テイ、ひのと)は、相撲に大達(おおだて、明治に活躍した大関・大達羽左衛門、現在の山形県鶴岡市出身)の力と剣山(つるぎさん、明治に活躍した二代目大関剣山谷右衛門)の技とは、孰(いずれ)が優れると評し、果ては座敷の真中で座角力(すわりずもう)や腕押の力自慢。 戊(ボ、つちのえ)は、団十郎の活歴は菊五郎の時好に匹敵して如何と論じ。 己(キ、つちのと)は、端唄都々逸一(いつ)は酒席に欠べからず。 我輩をして愉快を感ぜしむるものは、わしが国さで見せたいものは、むかしや谷風いま伊達もよう、ゆかしなつかし宮城野信夫(浄瑠璃「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」の通称)と来ちゃ、たまらぬたまらぬと云えば、庚(コウ、かのえ)は、彼れ田舎漢(でんしゃかん)いまだ高尚の妙を知らず。 酒は、香の物に乾物、低い調子で恋せずば、玉の杯と語るの風流なるを会得せぬには困る。 いかに野暮でも山崎や賎機(しづはた)の面白い所は分りそうなものにと澄し。 辛(シン、かのと)は、寄れば障れば相塲の相談。 君あの郵船を蹈(ふん)だが惜い事をした、今度は増株(ましかぶ)が内々極ったら何でも鉄道でウンと儲けようでは無いかと、濡手(ぬれて)で粟を握(つか)もうと云う、正直ものゝ軍議。 壬(ジン、みずのえ)は、ヨシ玉え政治論は野暮すぎる。 大抵にして今夕(こんせき)は例の宿坊に赴こう。 彼的(かのてき)の音曲は拙(つたな)いが嬋妍(せんけん、ほっそりと美しい)たる容顔(ようがん)一点の申分なしだ。 ソレが僕に少し来て居る様だ。 サアサア出張々々と自分極めの色男揃い。 癸(キ、みずのと)は、いかなる劫か丁々と四丁に掛って延引(のっぴき)ならず。 堰にせかれて生死の苦しみするのが面白いと忙しい日を唖の合戦に潰さねば成らぬ苦み。 是ではナンボ修行でも体が続かねば、根も竭(つき)る。 入用損の日間(ひま)っぶし。 コイツ一工夫せねば堪(たま)らぬと、さすがの清水も茫然として方向(ほうがく)を失いたる如くなりしが・・・・・・・・・・アー日本の社交は六ケしい(むつかしい)六ケしい。 倫敦(ロンドン)のソサヤチーの方が余程楽だ。 今回は、思わぬ苦労。 まさか十干箇条書きで状況説明とは。 当時の人であれば、あるいは、その界に多少の知識でもあれば、受ける印象も違うのかもしれない。 何と言っても、福地桜痴大先生の文章である。 こう云う書き方もあるのかと、呆れるやら感心するやら。 しかし、テンポがある。 リズムがある。 これも比較は出来ないが、ヘンリー・ミラーのテレグラム・センテンス的印象のちらほら。 諧謔のジャーナリスト、やっぱり、ミラーではなく、チェスタートンか。 Best regards 第三回 此人ならばと思いたる郡樫蔵は、思いの外の人物。 いかに清水潔が旧縁(ゆかり)のある仁であろうが、何のその、金になるなら此方からお頼み申してもお世話を仕よう、損がいく事なら真平御免を蒙りましょう。 併(しか)し貴君が銀行へお預けの公債を売払い二万円の現金を無利息で私へ御預け下さるなら只今でも直に宜しう御座る、と云う様な気風を見て取り、清水は呆果て何(いず)れ近日また上りましょうと、ソコソコに挨拶して郡が宅を出て・・・・・・・・・・・ヤレヤレ驚き入たる驢馬(ドンキー)め、日本には猷太(ジュー)は居ないと思ったが、ドウしてドウして樫蔵を見たら正銘の猷太(ジュー)も肝を潰し三舎を避ける(『春秋左伝』僖公二十三年、「其避君三舍」、相手を恐れてしりごみすること、また、相手に一目置くことのたとえ)であろうと呟きながら旅館(ホテル)に帰り、甚だ以て快からず。 午餐(ひるめし)を喫(くい)畢(おわ)り後、去らば叔父の遺族が当時下谷のお多福横町に居るを訪ねんとて、旅館に備えたる東京方角案内と云う本にて塲所を調べたるに、昨夜(ゆうべ)ステーションで知れざりしも道理、この横町は明治廿六年に道路取広げと相なり、只今にては三等の大通り。 漸く尋ね当って問合すれば、清水が妻子は此処を引越して、今では入谷の朝顔園と云う花屋敷と熱海温泉の出張所との間なる裏長屋に住み、母子(おやこ)二人で幽(かすか)に其日を送って居るとのこと。 夫は気の毒千万、叔父は余り面白からぬ人でありしかど、叔母(叔父の妻)には子供の折に可愛がられた事もあった。 叔父が身代限りして後に失(な)くなった事なれば、跡に残って妻子は定めて難儀をする事であろうと、原(もと)より人情ぶかき信切ものゝ潔ゆえ、先から先へと捜して遂に尋ね当てて見たるに、思ったよりも猶(なお)ひどい暮し。 九尺二間の裏店住居(うらだなすまい)。 その有様を書綴らんは、クダクダしければ略して云わず。 凡(およ)そ貧乏世帯の最下等に見るもの一つとして、備らざる所なしと評して可なり。 まだ残暑の強き折なれど、東表西裏の田楽長屋、涼しい風と来たら一昨年(おととし)の七月に大南(おおみなみ、南風のことか)が吹た以来入った事は無いと云う向の処に、清水の後家お賢は鉄縁の眼鏡を掛けて頻(しきり)に麦藁真田(真田紐)を組み、娘の乙女は絹ハンケチーフの縫を一心にして居れり、是ぞ母子(おやこ)が其日を送る種とぞ知られる。 清水は、台所の傍(かたえ)なる三尺四方の土間が一尺ほどは糠味噌桶と割薪と雨戸に押領(おうりょう)せられ、お負けに上汐よろしくと云う下駄二足を脱ぎたれば、空地とては僅に方一尺八寸余と云う所に入りて、小声にて、御免なさいと音なえば、乙女は縫ものゝ針をやめ、ハイ誰君(どなた)で御座います。 一寸お尋ねしなすが、清水山四郎さまのお跡は此家(こちら)で御座いますか。 ハイ左様で御座いますが貴君(あなた)は。 私は潔で御座いますが叔母さまは、と問うを待たず、乙女はかなたを向いて、お母さん、アノ潔さんがお出で御座いますヨと、喜びて知らするを聞き、お賢は膝の上に並べて組かけたる麦藁を散らぬ様に、前垂を外づしては引つゝみ、立上りて潔を見て、オヤマー潔さん、ドウしてお出(いで)だ・・・・・・・・・・・よく此所(ここ)が知れましたね・・・・・・・・・・・・・昨夕(ゆうべ)洋行から、お帰りとエ・・・・・・・・・・・・・・マーお上りヨ、乙女やお母さんが常々(つねづね)話して聞かせた潔さんは此お方だヨ・・・・・・・・・・・・・・と喜びの余りにや話う詞(ことば)もあとや先、ただ先(さきだ)つものは涙なり。 清水は叔母の顔をツクヅクと見れば、年はまだ五十路(いそじ)を越したる計りなるに甚(いた)く衰え、昔の俤(おもかげ)は尽(ことごと)く消え失せて、浅ましき老婆とはなりぬ。 アヽ是も貧乏ゆえかと推察すれば、哀れにも亦痛わしヽ。 お賢は涙ながら清水に向い、潔さんマア聞ておくれよ、叔父さんは(即ち清水山四郎とてお賢の夫、潔が叔父なり)貴君(おまえさん)が洋行のお留守中であったが、丁度十年前、株券の相塲騒動で身代限になり、昨日までの暮しに引替て翌日(あくるひ)からは下谷お多福横町で、今は大道(だいどう)になって居る、アノ御徒町の大通りの新道(しんみち)に幽かな住居(すまい)に世間を狭く暮して、何処へも顔出しの出来ぬ様にお成りで、夫から体もめっきり弱って五年前の十一月八日に心臓病で失くなられました。 世が世なら葬式(おとむらい)も立派にする処だけれど、何を云うにも身代限の始末だから、其翌晩コッソリと谷中に葬りまして、アノ貴君(おまえ)さんのお父さんのお墓の側にある小さな石塔がそうで御座いますヨ。 そして極内(ごくない)の話だけれど叔父さんが夫でも人の名前にして仕舞って置た地面や公債が少々はあったので親子三人ぐらいは、どうやらこうやら食ていかれたので御座いましたが、ソレ貴君(おまえさん)も御存(ごぞんじ)の狡五ネー、慥(たし)か御洋行の時は、あの子(狡五)が十二で、此子(乙女)が四ツでした・・・・・・・・・・・・私には成さぬ中の義理ある子だから(前妻の子)、総領の事もあるし叔父さんがなくなった後は跡に立(たて)て、私は万事扣(ひか)え目にして居た処が、何が扨(さ)て二十二と云う若盛りで、夫は夫は怪しからぬ身持ち、私が度々意見しても馬の耳に念仏で、芥子(けし)程も聞入れず、地面も公債も一年ばかりの内に人手に渡し、住居も道具も八重に抵当に入れて、ひどい借金を仕ちらかし、揚句の果が一昨年の暮に逐電(かけおち)して往衛(ゆくえ)しれずサー。 借金取は方々から来て居催促(いさいそく)、其中には義理の悪いお金があるので、私は何もかも狡五の借金かたに引渡し、忘れもせぬが其年の師走の廿三日に着のみ着のまゝで娘の手を引き出入の米屋の世話で此所(ここ)へ引越しましたが、身に附たものは身体の外には何にも無いから母子(おやこ)二人で手内職をして其日をヤット過して居りますが、有り難い事に私も以前は病身がちであったが、貧乏になると気に励みが附て来たせいか、思の外丈夫に成り、マアお薬もめったに飲まぬ様になりました。 夫に娘が此通り精出してハンケチを縫ったりレースを組んだり仕て、とんだ稼ぎますので私が働かないでも食る丈(だけ)の事は有りますが、可愛そうに今年はモウ十八になりますが、三年このかた燻り切て表へは出ず、お爨どん(おさんどん、下女、台所仕事)を仕たり、味噌漉(みそこし)を下げて使にいったり、辛苦の仕通し、中にはアノ器量をコウして置くは惜しいものだ、旦那とりをさするか、柳橋にでも出したら、お前も楽が出来て宜(よ)かろうにと申す人もありますが、当人はたとい乞食見た様になっても其(そん)ナ恥かしい体になるは否(いや)だ、お母さん一人はどうかして貧乏なりにも私が稼いで食させるからと申しますので、私もソンナラそうと申して今日までは暮して居ましたが、実は貴君のお帰りを心待に待て居りました。 私はモウ先も無い身体だからどう成っても宜(よ)いが、娘だけはどうぞして人並にして遣りとう御座います。 潔さん、推察しておくれよと涙と鼻涕(はな)を啜りつゝいとも哀れな身の上ばなし。 清水は始終を打聞て、共に涙に暮れたりにけり。 娘の乙女は母が話の中にチョット表へ出で程なく帰りしが、近所で買って来た菓子を袋より出して、縁の剥げたる盆に載せ、番茶の煮花(にばな)を汲で清水が前へ差出し、貴君(あなた)、なんだか可笑な物で御座いますが、お一つお摘(つま)みなさいまし。 ソシテお母さん愚痴ばなしは大抵にお止(よし)なさいよ。 貴君(あなた)が御迷惑で入らっしゃるだろうから、ホヽヽヽヽ、モウお袋も此節は愚痴ばかり申して困ります。 ドウゾ御免あそばせと、涙を袖に押隠し無理に作った笑い顔、泣くに増したる思いなり。 清水は思わずも乙女の顔を打見るに、髪は油気も無き引っめの銀杏返し、邪見に結んで櫛さえ入れねど毛彩(づや)は飽まで黒くして、ふっさりと生え分て、揉上(もみあげ)から襟足の所は申分のない髪毛(かみのけ)、額の生え際は一たい濃き方なれど、いつが何年にも剃附けず、生れた侭なが却(かえっ)て天然(うぶ)にて一しおの愛嬌なり。 色は極て白きが上に、ほんのりと赤みが底の方に見え、眉はポーッと広く眉頭の方太くて眉尻に至りて細く、眼は黒目がちの二重まぶた、睫毛は濃くて長くはえたるにて、大きなる眼をば一層涼しく見せ、鼻筋は通りて、歯は水晶を並べたる様に麗しく、口元のキリット上ったるに薄き唇の紅なるは花にも喩がたし、丸顔で下豊(しもぶくれ)中肉中背、手のつまさきから足もとに至るまで、一点の申分ない美人。 もし美人の共進会があるならば、此人ならでは東京より出品する女性(にょしょう)はあるべからずと美術家も俗物も與(とも)に同論なるべし。 此の十五年来、西洋諸国の都にて美人の見飽(みあき)をしたる清水も、今この乙女が髪も結わず着物とては雑巾にても惜からぬ木綿中形の浴衣を着て、縄のようなる帯を締めても天性の美麗なるを見て、思わずも襟元からゾッとする様に覚え、加うるに叔母の物語にて孝心の次第を聞き、貴くもまた可愛(かわゆ)くて、あわれ是程の器量人柄を備えたる処女、高貴の奥方となしても不足なきものを斯(かか)る草屋(くさや)にうち棄て、賤(しず)の男が妻(め)にせんことの悔しさよ。 我も男子と生れたる冥加には宿の女房と定めたきものをと、此時よりして、清水は乙女を恋い初めたり。 稍々(やや)あって、清水はお賢に向い段々のお物語承って御気の毒至極、心労お察し申上げます。 併し人は七転び八起きと申せば、再び御運の開くる時節も御座ろう程に、左様にお気を揉ませ玉うナ。 及ばずながら私も帰京いたしたれば、力の届くだけは御相談に預かりましょう。 又乙女さんは私が為には従兄弟同士の間柄、どの様にも力に成りましょうから必ず御案じ成さいますなと、信切に言い慰めたるに、お賢は落(おつ)る涙を押し拭い。 潔さん、貴君(おまえさん)の御信切な御詞を力に致しますヨ、頼(たのみ)に思うは貴君(おまえさん)一人と繰返し繰返して頼むにぞ、乙女も傍より、潔さんどうぞ宜しう御願い申ますと、詞少なに挨拶したり。 清水は上衣(うわぎ)の隠しより紙入を取出し十円計(ばかり)の札を紙に包み、お賢の前に置き、叔母さん是は誠に失敬では御座いますは、お菓子料の印し御収め置き下さいまし。 実は乙女さんにも何か、お土産を持て参ろうかと存じましたが、永の道中の事で心に任せぬゆえ、斯(かく)の仕合(しあわせ)と当座の貢の心にて差出せば、お賢は押し返し、潔さん、お止(よし)よ。 貴君(おまえさん)だって旅から帰った計りで中々入用も多いのに余計の心配、おしで無い。 夫に私どもは困ると云ってもコンナに大層のお土産を貰う気は無いからお返し申ますと、貧乏はすれど流石に清水が叔母、きっぱりと押返し、乙女も共に断わったり。 併し十銭の小遣にも差支えて居る内幕は透き通って見えたれば、清水は笑ながら、何の叔母甥や従兄弟同士の中で、そんな他人行儀が入りましょうか、私が困る時には、又御無心に出ますから、叔母さん、マア取ってお置きなさいまし。 ソシテ此の残暑の酷い内は、日中には御内職を少し止めて、御身の御養生を成さったが宜(よ)う御座いましょう。 尤も御身上の事に付きましては少し考えた事も御座いますれば、何れ明日か明後日また参りましょう。 其中に御用もあれば、此処へ郵便を御遣し下さいましと、名刺(なふだ)の裏に鉛筆にて旅館の町名番地を記して、お賢に渡し暇乞して立ち出でたり。 お賢は乙女と共に清水が出行(いでゆく)を送りたるに、乙女は其姿が見えずなりても、猶暫しが間は茫然として門口(かどぐち)に彳(たたず)み、ニッコリとほゝ笑みたり。 自分は文学のことは分らないが、場面描写、特に人物描写が長いのは、この時代の特徴の一つだろうか。 実は、この場面には、2ページに亘って挿絵が入っている。 前段の見せ場と云う事であろうか。 尚、この挿絵は、「近代デジタルライブラリー」で『もしや草紙』を検索し、本文の16コマ目で見ることが出来る。 Best regards 第二回 (続き) 此清水の父と申すは、清水金作とて幕府の頃は広く諸大名の用達を務めたる歴々の町人なり。 御一新の後は身代も少し傾(かたぶ)きて、原(もと)の如くには有らざりしかど、幸いに是までの用達金が公債の処分と相成ったるに附き、再び息を吹返し、銀行諸会社の株をも数多(あまた)所持なし、駿河台甲賀町辺に家を構え裕福に暮したり。 子供は男子(おとこ)両人女一人を設けたれども、総領の娘は七歳のころに死し、末子(すえっこ)も亦、生れて程なく失(な)くなりたれば、僅に一人の男子のみにて、是が即ち清水潔なり。 然るに金作の妻が明治十七年に身まかりて後は、また後妻(のちぞい)を迎えず、潔をば大切に育て、十二歳の頃には尋常中学に入れ、十六歳の頃には高等中学に転じて勉強せしめ、只管(ひたすら)に其成業の日をのみ楽しみとしたるに、如何なる宿世(しゅくせ)の因果にてやありけん。 明治二十一年の夏に至りて、金作は胃病に罹り、兎角 に気分の勝れざりければ、医師の勧めに由(よ)り、且は鉱山の塲所見分かたがた、七月上旬に東京を立ちて、会津地方に赴き、十三日より磐梯山の温泉に療浴したるに、其月十五日の朝、おもい掛なき磐梯山の破裂噴火の変に遇い、非業の最期を遂げ、空しく泥灰の中に葬られたるぞ無慙(むざん)なる。 潔は此変を聞きて親族と共に急ぎ其塲所に駆付たれども、固より救うべき手段とても無く、遺体(なきがら)さえ漸くの事にて、人夫を頼みて掘起したる位の事なれば、泣々其近傍にて荼毘の煙となし、白骨を携えて東京に帰り、法(かた)の如く谷中なる菩提寺に葬り、扨(さ)て夫より親族うち寄りて、家事取纏め方の相談に及びたるに、清水の家には金作と潔の父子(おやこ)のみにて、其他は皆召使の男女ばかりなれば、潔が家を立る迄は斯(か)く多人数のものを用もなきに抱え置くに及ばずとて、中陰(人が死んで49日の期間)の過(すぐ)るを俟(ま)って、数多(あまた)の男女には皆暇を出し、其家屋家財は都(すべ)て売払いて資金に替え、取引の銀行に預け、潔は一旦叔父の家に同居する事に決したり。 此時、潔は十九歳にて、才智に秀で学術も優等なるが上に、生得温和にて沈着たる若ものなりければ、深く其身の上の前途を考えて、浮(うか)とは人の口車に乗らず、親族及び懇意の向に、清水が家産を目的に種々(いろいろ)と信切めかしく相談相手に成て遣ろうと云う、お世話焼があれば、潔は宜(よ)き程に接遇(あしらい)て打払い、一人にて其処分を工夫したるが、去るにても父の金作が所有財産の中にて地所家屋家財公債株券の類は発輝(はき)と分てあれど、銀行への預け金、諸所への貸出し金は何程ありしや更に分らず。 勿論、帳面類証文類も慥(たしか)に父が手許の用箪笥に入れ置いてあったに相違ない事は知ったれど、磐梯山の変事の頃には、潔は学校暑中休にて学校朋儕(ともだち)両三輩と打連れて信州の方に旅行したれば、変事の電信を請取ると其侭に、旅行先より駆付たるに付き、帰宅の上にて取調べたるに、帳面類はあれど肝心の銀行通(かよ)い帳や貸金帳は見えず、証文箱の内も反古証文計(ばか)り、十余通あって生(いき)たる証文は尽々(ことごとく)紛失したり。 是は潔が未だ帰宅せざる前か夫とも葬式等の混雑に叔父なる清水山四郎が番頭と腹を合せて仕組し事ならんと勘は附たれど、証拠なければ持出す事も出来ず、潔は残念ながらも深く一人の胸中に蔵(おさ)めて色にも出さざりき。 斯くて其年の九月下旬に至りて、金作が百ヵ日の法会も鄭寧に執行(とりおこな)いて後に、潔は地面家屋株券其外をば、尽(ことごと)く売払いて整理、公債証書二万円を買入れ記名となして、是を父の代より取引の某(それがし)国立銀行に預け、其外に現金凡(およそ)一万円ありけるを、叔父が頻(しき)りに勧むるに付き止を得ず、叔父が取締役を勤め居たる某私立銀行へ年六分の利にて定期預金となし、此の利子と右公債の利子とを合せて毎年千六百円は潔が手に入ることに定まったり。 斯く家事を取片付たる上は別に用事もなければ、潔は兼て心懸たる西洋留学の志を決し、右の千六百円の中にて毎年千円づゝを留学の先に送り、残り六百円の中にて菩提寺の付届け諸税其外を仕払い、其残りは叔父の銀行へ預くる事に約定を取結び、潔は是より満十五年の留学にとて、同年十月中旬、横浜出帆の米国(アメリカ)飛脚船に乗込み、馴(なれ)し東京を後になして外国へは赴きたり。 それより潔は十月下旬に桑港(サンフランシスコ)に着し、米国の大陸を経て、新約克(ニューヨルク、ニューヨークの事、紐育が一般的)に達し、同地より大西洋(アトランチック)汽船に乗りて英国(イギリス)のリバプールに着船し、倫敦(ロンドン)に赴きて学科を終(おさ)め、明治廿二年にはケンブリッヂ大学に入り、同廿五年に卒業して法科得業士(バチエロル・オブ・ロウ、バチェラー・オブ・ロー、B.L.)の学位を得、なおも同校にて研究の功を積み居たる。 内に日本にては、潔の叔父が株券の相塲に引掛って非常の失敗を招き、当人の身代は云うに及ばず、其銀行までも閉店と相成ったる騒動なれば、気の毒なるかな潔が預ケ金一万二千余円は皆無となれり。 幸に国立銀行の公債証書は記名ゆえ、叔父も流通する訳にゆかず、其上に其銀行の頭取が清水潔より預ったる公債なれば他人に渡すことは相成り申さずと、厳しくはね附けたるに由って、夫だけは傷が附かず、右の利子を其以後は彼の国立銀行より送り来るにて、潔は学資に差支なく勉強し、遂に学士(マスター)の位に昇ったり。 夫よりして潔は大陸に渡り、仏蘭西(フランス)、独逸(ドイツ)の両国にて有名なる大学に入りて、猶(なお)も其功を積み、凡そ法律経済商業の各科みな其奥儀を究め、殊に弁論文章に長じ、速記は尤も得意の技にてありける程に、諸会社あるは諸商店にても、潔を聘雇(へいこ)して、一廉(ひとかど)の役員に成さんと申入るゝも多けれど、潔は深き望みありとて、皆これを断りて、専ら実地の研究に力を用いたれば、到る処にて、日本人中抜群の人物なりと賞(ほめ)られ、別(わけ)て婦人仲間にては尤も評判よく青年の花とまでに呼ばれたり。 斯く勉強の上にて、今は日本に帰り、事業に取掛かりても懸念ある可(べ)からずと、人も勧め自分も左こそ思いたれば、去らばとて今年明治三十六年の一月を以って仏国(フランス)のカレーより海底遂道(トンネル)の鉄道を経て、英国のドーバーに達し、三ヶ月ほど倫敦(ロンドン)に滞留して、再び帰路を米国(アメリカ)取り、加拿陀(カナダ、加奈陀が一般的)のワンクーウェル(バンクーバーの事)港を本月(八月)十日の夕に発し、同き二十日の朝を以て青森の港に着し、同所より直に鉄道に乗り、翌日廿一日の夜に東京には帰り来れり。 叔父の山四郎は其頃既に死し遺族が下谷お多福町に住い居るとの事なれば、先ず其方(かた)に落付くか、然らずば、其昔し父の金作が召仕いたる番頭某(それが)しが、お玉が池の宅か、又は旧友の某が山伏井戸の宅に落付かんと思いたれど、宿所が分らねば據(よんどころ)なく、其夜は日本橋辺の旅館(ホテル)に一泊して、明けなば誰を音信(おとづれ)て、心事を語り相談せんと思案したるに、郡樫蔵こそは差向き其人なるべけれ。 彼は随分いやな人物なれど、父が格別に目を掛たる漢(おとこ)なり。 其上に此節は身代も出来て紳士の列に加わり、殊には先年海防費献金にて従八位になったる位なれば、まさかに悪くは取計(とりはから)うまじき。 兎にも角にも、まず此漢(おとこ)を尋ねて見んものをとて、扨(さて)は本文の如く音信(おとづれ)たる事と知るべし。 今回は、書くことも余りない。 物語の進展をただ見守るだけというところか。 ただ、これを読むと、何だかサッカレーの『Vanity Fair(虚栄の市)』辺りを読んでいるような趣がある。 桜痴の『戯著(ざれがき)』と比較にはならないが、漱石にもそんな雰囲気を感じる。 ヴィクトリア朝文学の影響を受けているのだろうか。 Best regards
第二回 畳数にて申さば、凡(およ)そ十二畳ほどの座敷にて二階の巽角(たつみかど)。 尤(もっと)も外部(そと)は煉瓦造の西洋家(や)なれど、内部(うち)の造作は西洋三割日本六割支那一割と云う折衷主義にて、即ち主人の居間なり。 水戸マーブル(茨城県真弓山産の大理石「寒水石」、水戸藩の御用石だったそうだ)の爐板(マントルピース)の上に薩摩焼の花瓶(かへい)一対を左右にならべ、(牡丹の花盛りに蝶が舞い遊びたる横浜仕込の絵付なり)、中央には瑞西(スワイス、スイスの事)名物の置時計。 焼附の水金はピカリピカリ(繰返し記号)と硝子(ガラス)の覆(おい)の中に光ったり。 其側(そのそで)に白水の小箱を萌黄絹真田(真田紐の事)の十文字に掛ったる侭にて載せ置たるは、其中なりとも知らねども、大かた昨日懇意のものが京都土産に持参したる道八の急須に非ずんば、是れ今春の近火に世間の附合で、據(よん)どころ無く恵恤金(けいじゅつきん、義捐金)を出したる賞として、先日区役所の手を経て賜わったる木杯一個なるべし。 唐木縁の姿見(鏡の事)は硝子(ビードロ)板薄くして、且つ扁(ひずみ)たりと雖(いえど)も、出処正しき競売(オークション)の古物なり。 縫箔(ぬいはく)したるテーブル掛は品柄あまり結構ならずと申せども、敢て博覧会の残品には非らず。 机の上に多数を占めたるは日本帳面に西洋薄冊(ノートの事)。 其外は諸銀行会社の報告書にて、黒塗皮銀金(ぎんかな)ものの提包(カバン)の陰より半身を現わしたるは、何事につけても主人が第一の顧問と頼める広島算盤(広島算盤または芸州算盤は江戸時代辺りから有名だったが、次第に雲州算盤にシェアを奪われていった)なり。 硯箱の傍(わき)に堆(うずたか)く積みたるは一目にて出入の仲買より毎日送り越せる相塲(そうば)付とは知られたり。 壁に掛たる応挙(丸山応挙)の画幅は東京仕入なれど三級(どういう意味加)の涙を昇る程の勢ある鯉とも見えねど、朝日を避けたる窓掛の織物は古物(ふるもの)ながら金糸の色は燦然(さんぜん)たり。 主人は年の頃、凡(およ)そ五十三四と覚(おぼ)しく、頭は半ば禿て昔の名残を留め、背(せい)は頗(すこぶ)る低く、お負(まけ)に肥ったれば、洋服には向の悪い体つきなり。 顔の色は黒々と油ぎったれぞ、揉上(もみあげ)より顳顬(こめかみ)に掛けて生(はえ)たる白鬚(しらひげ)をば一しお白く見せ、眉の太く長きは有がたき和尚さまの如く、眼の小さくて深く窪みたるは田螺(たにし)に、さも似たり。 眼尻の下ったると横鼻の広がったる所は色情の濃そうなる。 相されども夜具の袖の如き唇を固く結びて、益々其面(つら)を三味線の胴の如く角ばらせたるにて、拜金宗(はいきんしゅう)の先達なること、まがう方なければ、人情に牽(ひか)さるゝなどと云う弱みは二十年来、曾(かっ)て之なき欲には無類の剛の者。 五時三十分ばかりなる黒色薄羅紗(うすらしゃ)の上衣(マントル、マントの事)に、同じ色の胴着(チョッキ)を着し、鼠縞(ねずみじま)の大股引のダブダブ(繰返し)したるを三寸短に穿(は)き、其下より赤白ダンダラの履足袋(くつたび)を立派(りっぱ)に顕わし、銀座出来の上履(うわぐつ)をはき、向島製のペルシャ皮もて張たる大椅子にドッカともたれ、原来(もとより)流行物は嫌なれど、襦袢の襟(えり)と袖口は倹約なりとて、白ゴムを用いたるに引替て、金鎖の重たげなを胸にかけ、大なる金時計がシラリとチョッキの隠から龍頭を出したるは、甚(はなは)だ以って不似合なれど、是も抵当流れか到来物ゆえ、據(よんどころ)なく所持するなるべし。 銀縁の眼鏡を掛けて今朝の物価新報を手に取り、相塲の部を暫らく睨み詰たりしが、ニッコリ笑て振返り、時計を見て、モウ十時十五分になるに、まだ寄付の相塲が来ぬはどうだろうと独り呟きたるは、昨日(きのう)から郵船株の上りに余程の利か買玉に乗ったる喜びとは、蠢(うごめ)く小鼻に現れたり。折から此家の下女は名刺(なふだ)を手にもって入来り。 旦那様、このお方が昨日西洋から帰りました。 ご在宅ならが一寸御目に掛りたいと、お玄関へお出でで御座いますと、差出したる名刺(なふだ)を主人は手に取って見るに、表は西洋字でクシャクシャと印刷したるに、裏には行書にて清水潔とは記したり。 ハテナ清水潔・・・・・・・・・・潔と首を傾げて考えしが、ムヽあの清水の息子かと、其人が分ったと見えて、眼鏡の上から下女の顔を見て、コレ初や、其お方を表の西洋座敷へ、お通し申して、只今お目に掛りますと申せと言附け、夫(そ)から田村の真鍮張銀吸口の烟管(きせる)を取り、雲井の烟草(たばこ、雲井は常陸国那珂湊の女郎、その彼女が好んで吸ったのが常陸産のたばこ、常陸はブランド「水府葉」で有名だった。)を鄭寧(ていねい)につぎ、スウスウ云うまで二服ほど吸って、コツコツとはたき、表座敷へは向いたり。 抑も此主人と云うは郡樫蔵とて元は江州八幡在出生(しゅっしょう)の賎しき者なりしが、三十余年前に東京来り、痛く流浪したりけるを清水の父が其辛抱強さを見出して数ヶ月ほど自分の内に置て手代に使い、夫から世話して或る会社に住込ませたるに、三四年の後に給金の余りや内証で稼いだる小金を資本(もとで)に小商(こあきない)を初めたれば、清水の父は更に数百金を出し、有る時払いの催促なしと云う事にて、無証文で貸し与え、其後も度々融通して助けたる程に、樫蔵は段々都合よく、最初は五両一歩三月縛(しば)り、礼金一割、手数料五分と云う酷(ひど)い金を貸して取り付き、後には相応の身上となり、株の上りや米の下りに利運を占め、今では立派な身代。 世間の附合には風下にも置かれぬ人物なれど、何をいうにも金のあるのが其身の強み。 日本橋では指折の高利貸。 旦那々々と立てられて、先ず紳士の列に数えらるゝ人物なり。 下女の案内につれていま、郡が表座敷に通ったる清水潔は、即ち前回の旅帽(りょぼう)先生にて、年の頃、一寸見には三十六七に見ゆれど、年ごろ苦労をした故か、年よりは、ふけて見ゆれぞ、実は三十三四ぐらいなり、髪は黒く多き方(かた)なるを、ワザと短く切りたるは、永の旅行に斬髪が面倒なと暑気の折から頭を洗うに便なるが故なるべし。 眉は地蔵眉にて女の様なれど、眼は太く涼やかにて、才智の勝(すぐ)れたるを表(ひょう)し、鼻筋は通って高く、口元は男には惜いものと云う程に締(しまっ)て小さく、唇薄く歯ならびよく、顔形は先ず丸(まろ)き方にて少々下豊(しもぶくれ)なるが、髭は鼻の下のみ生して其外は綺麗に剃(す)ったれば、其痕(あと)青みたり。 色は一体白き質なれども、顔と手先の少し黒みたるは、道中の炎天に焦(やけ)たるゆえと思われたり。 背(せい)はスラリと高く肉も相応にあって、よい恰幅。 女好のするよりも、孰(どちら)かといえば、男好のする人品骨柄なり。 黒羅紗のフロックコートに同じチョッキを着(ちゃく)し、中形の金時計を打紐(うちひも)にてさげ、縦縞の股引、黒靴、白襦袢(シャツ)の釦鈕(ぼたん)、襟飾りまで、すべて目に立たぬ恰当(かっとう)らる拵(こしら)え。 但しコートには、赤い略紐(りゃくじゅ)を結び、襟には金のメダィルを懸けたるは、是なん外国にて勲章を賜わり賞牌(しょうはい)を贈られたる標(しるし)とて、一際その品格上げたり。 座敷に通りて小さき椅子に腰うち掛け、主人の出て来るを待ちたるに、程もなく出来(いできたっ)たるは、郡樫蔵。 ナニカ横柄顔に挨拶をなし・・・・・・・・・フー、ナル程貴君(おまえさん)は清水さんの御子息だナ・・・・・・・・・・十五年の間洋行して・・・・・・・・・・・是から身と立る事を工夫でねばならぬと・・・・・・・・・・・・・・貴君(おまえさん)の御器量なら屹(きつ)と瞬く内に立派な御出世が出来ますヨ。 御受合だなどと世事ダラダラに返答はすれど、中々世話などしようと云う心の更に無い事は、口は言わねど目が言へば隠せと、色の顕われたり。 清水は郡が親のなじみと云うにつけ、昔なつかしく思い其身の事を打明て物語りしが、今その物語と其身の素性を手短に引絡(ひっから)めて申せば先ず左の如し。 当に「草紙」の感あり。 今までに、福地桜痴の文章を読む機会が無かったが、これは復と無い往き合せ。 旧漢字、崩し仮名には苦労もするが、読んでいて飽きが来ない。 江戸の草紙に明治の気配、何とも不可思議な文章である。 明治の時代背景を知らねばならぬと始めたことだが、この文章は、全く違う側面を見せてくれる。 「戯著(ざれがき)」とは、よく言ったものだ。 この人物描写の妙なる事。 尤も、「妙」の半分は、奇妙の妙に違いない。 同じ漢句に異なる読みや、読み下し文かと思えば、カタカナの英語の登場なのである。 ミキサーに、漢文と和文と舶来単語をごちゃ混ぜにして、一気に回し、文明開化の香り付け。 チェスタートンも真っ青になる。 考えてみれば、今の若者言葉にも、同じことでも起っているのか? いやあー、こりゃあ考えなければ、いけません。 真面目に一言。 読まれる方は、カット&ペーストで、別のファイルに纏める事を奨めます。 尚、文中()内黒字は原文中のるび、赤字は筆者の注釈。 以降、出来るだけ注釈など加えたいと考えている。 Best regards |
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梶谷恭巨
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男性
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1947/05/18
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