江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 「二 况翁閑話と題するわけ」 福沢諭吉君は、曰(く)富、曰名、曰子、皆世の所謂幸福を具備せらる。 故に自ら福翁と号さるゝなるべし。 加藤弘之君も、曰富、(富は福沢君程には参らぬかも知らぬが)、曰名、曰子、其外に曰爵位、是も世の所謂幸福は具備せらるゝも、却て自ら貧叟と号せらるゝは、何か見る所ありてか、将(マサ)に謙遜に出でたるか、併し前にも述べたる如く、福も貧も皆心の置き所より観し定むるもの故に、福必ずしも福ならず、貧必ずしも貧ならず、余は常に以為(おもえら)く、我が身は福でもなし、亦貧でもなし、福と貧の中ぶらりんなり。 如何となれば今朝も墓参として浅草に赴かんとて、足駄をはき、ステッキをつき、小石川砲兵工廠の前を通行するに、泥深くして履歯を没し、頗る歩行に苦しむ。 向うより余と同年齢位斑白にて人品よき車夫、いかにも見苦敷人力車に老婆と小娘とを載せ、汗をたらして此悪路を曳来れり、唯歩行くにすら道悪しくて困難なるに、二人を載せし車を曳くには、さぞ難儀ならん。 人品より察すれば立派の人の成りのはてにて、貧しきゆえ止を得ず車夫となりしなるべし、彼に比較すれば、此身は恩給の御庇で一家の餓寒を免れ、倹約さえすれば安々と墓参も出来る。 実に幸福者なりと思えり。 夫より本郷に出で、湯島切通しにかゝり、左に岩崎家の新築を望み、思うよう、余近く職を辞し、専ら家居読書せんとするに、書斎意の如くならず、新たに書斎を築かんとする積らすれば、二千余金を要す。 此際二千余金はとても支出し難くて止みぬ。 若し岩崎家の門番所建築費だけならば、如意の書斎出来べきにと思えば、つくづく身は貧たる如き観をなせり。 抑僅に一時間に足らぬ内に、心に自ら福と感じ、又貧と感ずる。 夫れ此の如し、故に余は福でもなく貧でもなし。 そこで前に述べたる如く一定の所に心を安んじ、事に応じ感を発する。 総て、ましての翁の流儀にするこそ、又話の数も二ツか三ツにてやめるか、十二三にして尽るか、或は二百三百になるかも知れず、きっちり百と限ること能わず。 因て况翁閑話とでも題号したらよかろう。 評曰先生の冷眼を以て見れば、福翁必ずしも福ならず、貧叟必ずしも貧ならず、貧福を以て自ら居るもの、蓋し未だ一定見地の外なることなからんや。 此編初段、貧福を論破し、次に近く喩を引き、又末段の数を百と限らざる事を述ぶ。 亦是福貧両家と見を異にする所なり。 車夫の貧を見て之を侮らずして自ら鑑み、岩崎の富を見て羨ずして自ら堅守す。 富も移す能わざるもの。 翁に於て之を見るや。 PR 今回は、『柏崎通信』以前からから何度か紹介した順天堂・佐藤尚中あるいは松本良順の門人であり、明治陸軍軍医総監として、また日本赤十字社の第二代社長として、日本の医学に重きを成した「石黒忠悳」の著述を紹介する。 『况翁閑話』、况斎・石黒忠悳、明治34年11月12日刊、博文館 「緒言」、坪谷善四郎、省略 人は感情の動物というて、事物境遇によりて頗る鋭敏の感情を起し易い。 此感情の為に制せられて、真理をあやまり、本道を履(ふ)み外すことが多い。 故に常に安心立命の地を見定めて、心を此に定め置かねばならぬ。 そうしないと高等官になりて、其日から家族に殿様と呼せたり、議員に当選したとか、社長になったとかいうと、一人引(人力車)にても軽すぎる程の小さき身体で、(昨日迄は浅草まで五銭というを四銭にまけろと辻人力車を値切って乗た人が、マニラの葉巻をくわえて)、二人引の鳥車夫に曳ぱらせるという大得意になり、一通の辞令が天降りて職を離れると、鬱々として楽まず、何も関係のなき家内眷属にまでツンツン当り散らすという大喪志を表すに至る。 况(況と同じ)や一身の真の大事に当り、真理に処し、道義を履(ふ)むと履まざるとの境遇に於ておや。 ウッカリすると間違うのだ。 神道でも、仏道でも、儒道でも、耶蘇教でも、此処が肝心の所だと思う。 耶蘇が磔柱の十字架に釘付されても、悲哀せず、孔仲尼(孔子のこと)が陳蔡の野で困しめられても、悠々として狼狽ずに居たのも、日蓮が龍の口で頸首(そっくび)を延ばして白刃を受けようとしたのも、皆心を安置する所が、定まりてあるからだ。 そこで、グラットストーンが八十を越しても、其信ずる所の政治方針の為には、老喉を鼓し声嗄るまで絶叫するも、ビスマルクが老眼を燈下に拭うて、新聞に自論を揚ぐるも、皆此信ずる所の主義の為だ。 さて此主義を立て通すには、安心立命の堅き地盤の上に安坐せねばだめだ。 地盤がぐらつくと主義のグラツク人があるが是を地震主義とでもいうだろう。 そこで固き地盤を見定て、其上に心魂を安置するのが、人間最第一の要計だ。 余十八才の時、岡本縫助殿という人に逢うた。 (岡本氏の事は後に又述ぶべし)、此先生の話の内に昔ましての翁という翁がありて、何事にも頓着しない、よき事がありて人来り慶すれば、曰く、是よりも尚およき事もあるべし、まして如此事をや慶するに足らずとて喜ばず、凶事ありて人来り弔すれば、曰く、是よりも尚凶き事もあるべし、ましてや如此事をや、憂うるに足らずとて、憂いず。 此ましてという字を漢字に直さば况の字なりと、余此話をきゝ(其何書にあるか聞落せしは残念なり。 蓋し塞翁の馬作り替話なるべし)、大に面白く感じ、此翁固く安心立命の地に心を置く、故に幸不幸に大差なく、毀誉褒貶意に介するに足らざる也。 己れも安心立命の地を堅めてましての翁の真似をしようかと、因て此况(まして)の字を取て况斎と号さんとて、一日岡本氏に其事を話したりしに、氏笑て曰く、余亦此字を取り既に况斎と号せりとて、其蔵書目録况斎書目という本を示されたり、併し号などというものは、借用証文に書たり、公証人役場へ持出すものでもなし、いくら同じ人がありても差支なきものだから、其儘改めもせず、况斎と号するのだ。 漸く年齢を重ね、こうらを経て来て、近年は、斎をやめて翁をし、况翁と号す。 併し安心立命の地盤堅固にして果して昔のましての翁の如く参るか参らぬかは、死して後ならでは確とはならぬ。 評曰(評して曰く)先生自ら安心立命の地に立ち古今の人を見るに一種の巨眼を具(ともな)う。 此編、初段時俗を罵倒し、中段古人の事を説き、末段自家の心地を述う。 第七回 庭は本来自然をかた取って作るもののならば、草も勝手に生えよ葉も随意に落ちよ、荒るゝと云うは人間の私評、これが即ち自然なり。 我は其の自然を愛する者にこそあんなれと云う見識にや、凡そ五坪半ばかりの庭は荒に荒はてゝ、霜枯の為に一層の穢(きた)なさを増したり。 其昔置並べたる庭石も沢庵押しに使用せられたるか、歯の脱(ぬけ)たる如くにて枯艸(かれくさ)の中に埋(うずも)れ、三年前に御影が他へ嫁入した跡に直ったる根府川石の履脱(くつぬぎ)のみぞ独り傲然として、竹椽(ちくえん)の傾(かたぶ)きたる前に横たわったる。 但し其側に立たる芝山形の手水鉢(ちょうずばち)は此庭に惜き品の様に見ゆれども、実は焼石にて、お負に響(ひび)が入たる故に、敢て二君に仕えずして此家に留存(りゅうぞん)して居るが、其中の水は神武紀元二千五百十八年の夏に水池を洗いし以来は水が無くなれば、其上に差して今日に及びたるに付き、池中は碧苔蒼然として、恰も深淵を見るが如き相を顕わし、孑孑(ぼうふり)其外の水蟲(みずむし)は茲(ここ)に居を卜してより正しく十余代の世系(せいけい)を伝えたるべし。 此庭を面にしたる南向きの座敷書斎寝室(ねま)兼帯の一間は六畳敷に一間の床と一間の押入とを付けたり。 其普請は初め此家を造営せし時に、瓦、中塗、畳、建具まで入れて一坪十円で、大工が請負たる普請。 これが殆ど二十年に近く成ったる家なれば、良しや其間に手入をなしたりとて、其見るに足らざるは、勿論なるに況(いわん)や今の主人が引越たるこのかた已(すで)に向(なり)なんとすれども、曾(かっ)て一度の手入をも成さず。 毎朝(まいちょう)の掃除さえ煩(うる)さしとて、下女の干渉を謝絶するをの多(おおき)に於てや、床の間と云うは名のみにて壁の中央には山岡鉄舟が書いたる懐素風の草書もて、癡人猶斟野塘水と云う七字を黒々とものしたるが、紙も表装も燻(ふすぼ)り布袋の腹見た様に反(そり)たるが少々まがってぶら下ったるのみ。 其外は和漢西洋の古本やら雑誌新聞の読かけ乃至菓子打(かしおり)の明き箱茶盆等を秩序も無く置き並たる自然の物置とは変じたり。 幸に押入は古くして且つ破れたりと雖ども、二枚の唐紙にて立て切たれば、其中は見えねども、嘸(さぞ)じじむさからんとは推し量られて余あり。 主人は、年の頃四十三四と覚しくて、眉太く眼鋭(まなこする)どく、鼻も口と共に大くて、頬骨の高く顕われたる痩顔(やせがお)、髪の毛は三銭を奮発して刈込たるより既に三ヶ月余を経過したれば、後の毛はゾロゾロと襟の中に入(はい)る程に延び、前の方はぶらぶらと額に落ち掛りて、余程気味わるそうなれども、当人に取ては、更に然らずと見えて平気なり。 髭は頬から鼻の下あごに掛けて一面に濃く、然も不揃(ふぞろい)に生えたるが、誰も払いてが無い証拠には、お髭の塵は言うに及ばず今朝きこしめしたる味噌汁も干乾びて平張附(へばりつ)き鼻涕(はな)をかみたる紙屑も少々は其痕跡を止めたり。 午後五時ばかんなる琉球紬の小袖の上に袖口のきれたる黒魚子(くろなのこ)の綿入羽織を着し、机の上は書ものにて余地なき迄に埋めたるを掻退(かきの)け聊(いささ)かばかりの空地(くうち)を作り、其上に草稿紙を広げ、頻(しきり)に考えては頻に書て居たるが、今しも客が尋ね来りしに付き、机を少々側(わき)に押よせ、今戸焼の手あぶりを主客の間に出だし、心うち解(とけ)て物語してありぬ。 此の主人は即ち烏有仙史夢野実にて、客と云うは清水潔なり。 (注1)御影が他へ嫁入した跡に直ったる根府川石の履脱(くつぬぎ): 御影は「御影石」のことで、根府川石(ねぶかわいし)は、小田原の根府川で採れる箱根溶岩石のこと。 高価な御影石の履脱が、安い根府川石に替ったということ。 (注2)竹椽: 杉材を芯材とし、仕上材に竹を用いた襖椽。 (注4)神武紀元二千五百十八年: 西暦1858年、安政5年。 この年、日米通称条約を締結。 (注7)懐素風: 懐素は中国・唐代の書家・僧。 奇人として有名で、酔うと家中所構わず書きまくったと云う。 URLは次の通り: http://www.shomonji.or.jp/ 第七則 法眼、慧超に答う ナニ僕の境界が羨(うらやま)しいと、何の羨しい事があろうゾ、世の中には成まじきものは詩人、画師、音律師、哲学者、小説家なりと先哲が云われたが、実に其通り、僕もフトした事から此の魔界に迷い入り、或時は一部の小説を草して、時勢を嘲り、或時は一篇の詩賦を作って世上を諷し、以て得意なりとはすれども、ヨクヨク考えて見れば社会の為には何の利益も無く、自分に取っては世間に悪く思わるゝだけが損で、ヤット一膳のお粥に露命を繋ぐだけが儲け、差引て見たら損が残って儲なしであろう。 所謂る聖世(せいせい)の廃物とは僕が事で御座る。 清水君よ、君は抑(そもそ)も此の世の中に何の不平あって故(こと)されに此の廃物の仲間に入らんと望み玉うか。 ヨシ玉えヨシ玉え、今日為す事あるの時に生れ、為すべきの学芸を修め、又為すべきの才能を備えながら尽(ことごと)く之を棄て畸人(きじん)にならうとは、実に以ての外の料見違い。 君には不似合な御分別じゃ・・・・・・・成ほど社会の顕象(ありさま)が否(いや)でたまらぬと、夫はその筈さ、此の日本今日の社会は清水が為にも作らねば夢野が為にも作ったるの非ず、自然の発達で、こう成ったものだものを、御同様の気に入ろうが入るまいが、何と仕方が有るものかヨ。 君もし一人の力を以て此自然に敵対(てきた)い、社会の顕象(げんしょう)を破壊して、新(あらた)に君が望の如き社会を創始し得べしと信じ玉はば、風潮に逆行するも可なりサ。 それが人間業(わざ)にて出来ぬと悟ったならば、風潮に順行すべしと云ったからって何もかも世間のする通りにせよ、善悪是非を擇(えら)ぶに及ばずと云う訳では無い。 風に逆わず潮に激せずして、楫(かじ)を取り帆を操り、終には、たれが目ざす所の彼岸(かのきし)に着して目的を達するが、是れ社会の海上を航する趣意ならずや。 然るを己が思う通りに社会を仕て見たい。 夫(それ)が出来ずば社会を出離したいと云う一刀両断の決心は愉快には似たれども、極端から極端へ奔(はし)る気違沙汰。 君の決心とも覚え申さぬ。 短気は損気で無いかいナとは、即ち此事でござる・・・・・・・左様・・・・・・奮発して立身の策を建て玉え。 森羅万象みな是れ君が為には立身の地なり・・・・・・官員、夫も宜かろう・・・・・・商人、よかろう・・・・・・製造工業、同くよかろう・・・・・・何でも君が是はと思う事に其身を置て御覧(ごろう)じろ。 案ずるより産(うむ)は安い。 岡目で見た様ナ物では無いものダ。 一徹に否と思えば否だが、其否ナ中にも亦た面白い事がある故に、苦中の楽み楽中の苦みと云うでは無いか。 君が如きは彼(か)の食わず嫌いと云うもの。 苟(いやい)くも清水君とも云わるゝ大丈夫が、ソウ社会の顕象に怖れては往かぬ。 千辛万苦を凌ぎ通す気力あらば、社会の顕象、何の怖るゝ所あらん。 須(すべか)らく勇進すべしと、懇々説得せられて、清水は大に失望したるが、ヨクヨク考え見れば、ナルほど、先生の高説の如く到底超然として社会に出陣する事が出来ずは、社 ○これ以降、本文のページで、55ページから58ページまでが欠落している。 流石に福地源一郎・桜痴である。 博覧強記というか、諧謔の中に豊かな知識が鏤(ちりば)められ、文章に奥行きを感じる。 もっとも、こうした知識は、当時としては常識の範囲だったのかもしれない。 しかし、神武紀元で、安政5年の日米通商条約を引き合いに出し、文明開化を皮肉っている辺り、実に愉快である。 因みに、神武紀元の採用は、明治5年の太政官布告で始まり、翌年・明治6年元旦(1873)から、西暦と併用されている。 このこともまた、明治21年(47歳)の視点から考えれば、不可解と感じていたのかもしれない。 『もしや草紙』を採り上げたのは、日清・日露戦争までの明治の世相の変化を知る為であったが、今にして、これは正解であったと感じている。 残念ながら、先にも書いたように、第七回の後段と第八回の前段の4ページが欠落している。 欠落後の部分を拾い読みすると、面白そうなことが書かれているのだが、それは、第八回の後段欠落後の部分を配信する時に、改めて書くことにしたい。 Best regards
第六回 (注1)スモーキンルーム: 喫煙室 斯くて清水は鬱々として楽まず。 其身を処するの方向に屈託し、其後は余り外出もせざりしが、ある日、銀座あたりを遊歩したるに、一書肆(しょし)の店に処世真理と題したる一小冊の招牌(びら)を見、その書は如何(いくら)だと其値を問えば、定価は五十銭、お負申して四十銭、よろしい一冊買いましょう、四十銭で処世の真理が分り、是から先き四十年、生きれば一年が一銭とは安いもの、併し五分の利息を半年前に元金に加えて勘定したら幾許(いくら)になるであろうと詰らぬ事を考えながら其書を携えて旅館に帰り、四十銭の真理はどんな真理ならんと表紙を押し開いて四五葉読み下し、ハヽー此の先生は、韓図(カント)の流派を酌み、傍ら倍因(ページ)の糟粕(そうはく)を嘗むる哲学家と見えるナ、ヘン、こんな僻説(へきせつ)は感心が出来ぬ、・・・・・・・・ナル程これは御尤(ごもっとも)だと独り語して、評しては読み、読みては評したるが、去るにしても此論未だ以て処世の真理と名つくるの価値なしと雖(いえ)ども自(おのずか)ら一見識の凡庸に超出するものあるぞ、心憎き著者は誰やらん。 表題には烏有仙史とあれども、其実名知らまほしと巻末を見れば、著作者は、東京府平民、夢野実(まこと)とは記名して其宿所までも明細に記(しる)してありぬ。 扨(さて)は夢野の著述であったか、夢野は二十年前、高等中学にて師兄の礼を以て交りを結びし先輩、其後、西洋で遭った時には、頻(しきり)に哲学を修めて居られたが、程なく日本に帰りしと聞き、其後の様子を知らざりしに、今は哲学家に成って、真理を講じて居ると見えるナ、且つ著述の言論では奉職在官でも無い様だが、己れの楽みとする所にて、純粋の生活を成とは羨しい事である。 殊に此の夢野は我に比ぶれば十ばかり年長(としおさ)なれば、学問実験ともに我に優れ、日本社会の研究は最も行届いて居るであろう。 明なば早速に音信(おとずれ)て教を受け、処世の相談をも成して見んと、俄に飛立つ如き思を做(な)し夜の明くるを俟(まっ)て、平素に無き早起をして朝餐(あさめし)ソコソコに調(したた)め旅館を出で小梅の里なる夢野が許にと趣きたり。 (注1)韓図(カント)の流派: イマニュエル・カントドイツ観念論哲学派。 小梅の里と云えば、意気な所の様なれど、同じ小梅でもグッと引舟の通に寄っては、買物は不自由なり、出入りは悪し、別荘でも建て偶(たま)に往けば、格別のお金があるなら、先ず常住にはせぬ方なり。 夫を承知で此所(ここ)に寓居を卜(ぼく)したる夢野実は、所謂風流でもなく、洒落でも無く、詮方なしの詫住居なるべし。 ソウとは知らず清水は、夢野が住居は大廈高堂には非ざるべきも、柴門(さいもん)深く扃(とざ、かんぬき)して大樹屋(だいじゅおく)を蔽い風塵を謝絶して清閑を独占つるの家なるべしと思い、其番地を捜したれど、是が夢野の閑居と覚しき所も無し。 漸々(ようよう)の事にて、荒ものと駄菓子を商える家の老婆に問えば、夢野さんかね、ソレ、向うに見ゆる竹の垣根について右に廻ると小さな橋が御座います。 其橋を渡って左の横町に入ると角から二軒目が夢野さんですと教えられ、尋ね当って見れば、表の囲は建仁寺の毀(こ)われたるを縄にて古板を縛って補い、門とは仮の名、まことは傾いたる柱に雨戸を一枚釣りたるを片折戸にし其柱から筋違(すじかえ)に庭の柿の木の股に物干竿を渡し、只今もし傭(やとい)の老婆が洗濯せしと見えて、いかがの品を乾し、出入の邪魔になるも更に頓着せざるか如し。 清水は、まさかに此家では有るまいと思えども、論より証拠は門柱(かどばしら)に打ったる表札年数の風雨に晒されて、板は自然の洗い出しと成ったれど、墨で書きたる所だけは自から凸(たか)く成って夢野実の三字はアリアリと現われてありぬ。 (注1)意気: 粋の意味 以上、第六回終了 この『もしや草紙』が発刊された明治21年(1888年)という年は、国会の開設・憲法の制定など近代立憲君主国家成立への胎動が始まった時期に当る。 参議制が廃され枢密院が開設された。 また、清国との戦争を想定した軍制改革が始まるのもこの時期である。 亦、新潟県(柏崎・長岡)に関係深い日本石油会社が設立されたのも、この年の5月10日だった。 Best regards 桜痴居士著『もしや草紙』は、50回続く。 こればかりだと退屈する。 そこで、時々、別な資料についても採り上げてみよう。 今回は、新潟県長岡市に関係の深い、日本初の解剖学者・人類学者である「小金井良精」の母に関する資料を紹介する。 尚、小金井良精については、以前紹介したことがあるが、多少の説明を加える。 小金井良精の孫に当るのが、SF作家である星新一氏で、『祖父・小金井良精の記』という作品がある。 文中にあるように「米百俵」で有名な小林虎三郎は、伯父。 また、良精の後妻は、森鴎外の妹、文中の喜美子夫人。 長岡でも意外に知る人が少ないが、長谷川泰、石黒忠悳と並び、近代日本の医学界に多大な貢献をした人物である。 余談だが、喜美子との再縁を仲人するのは、森鴎外の上司であった石黒忠悳である。 書名: 『名士の父母』 九 小金井幸子 小金井博士が刀圭界*に於ける名声は夙(つと)に高く、其室喜美子夫人が閨秀作家として明治文壇に流麗なる才筆を揮えるも、既に世人の弘く熟知する処たり。 博士が母刀自(とじ)*幸子むしは、今猶お健康、若かりし頃に異ならず。 然かも閲歴中最も辛苦を重ねたる人なりとす。 (注)小金井良精の「良精」は、「よしきよ」あるいは「りょうせい」の何れも使われたようだ。 小金井家は越後長岡の藩にて、其遠祖は三河に出で、中頃徳川十七将の一たる牧野成定に仕い禄二百石を食(は)みしが、伝えて良精氏の先考・儀兵衛翁に至り、寺社奉行・町奉行・郡奉行・勘定頭等を勤めぬ。 幸子刀自は実に其配たりき、実家は同藩・小林氏、父は又兵衛とて文武兼備の聞え高く、加うるに兄・虎三郎*は佐久間象山の門下にて、吉田松陰と並び称されたる人なりしかば、刀自も又其流(そのながれ)を汲んで、夙に賢徳あり。 儀兵衛翁の許に嫁してよりも内助の功著しく、程なく六人の子女を挙げぬ。 良精氏は其次男なり。 (注)虎三郎とは、小林虎三郎のこと。 佐久間象山門下で、吉田松陰と併せ「二虎」と云われた。 斯(かか)る中に、世は漸う騒がしく、慶応四年、大事端なく鳥羽伏見の戦闘より破るゝや、次(つい)で東北征討の大命下り、昨日の将軍、遂に朝敵と目さるゝに至りぬ。 是(ここ)に於いてか東北の諸藩悉く一致協力して薩長諸藩の軍と兵を交えて其長となり、屡々(しばしば)官軍の鋭鋒を挫き、驍名(ぎょうめい)大(おおい)に北越の地に振いしが、日に増し勢威赫々たる官軍には敵すべくもあらで、さしもに堅固なりし長岡城も敢なく敵の陥(おとしい)るゝ処となりぬ。 此時、儀兵衛翁は藩主を護りて外にありしが、刀自は子女を携えて、難を城外の僻境。 橡堀(とちほり)村*に避け、甞(かっ)て大方ならず世話したる村人某の家に入りぬ。 (注)橡堀村は、旧栃尾市、市町村合併で、現在は長岡市。 ただ、GoogleMapで調べたが、該当なしだった。 さもあれ継之助は再び盛返して、到る処に敵を悩まし、長岡城の恢復(かいふく)を図りければ、諸所の小戦寸時(しばし)も止むなく、其隠家(かくれが)を忍出で、更に守門山の麓に遁れ林間の藁小屋にありて偶(わず)かに雨露を凌ぐの惨境に陥りしが、城頭の戦闘、日を追うて激烈を極め、砲声火光、日夜耳目を掠めければ、果(はて)は山中の露宿も夢結び難き事数日に及びぬ。 然も刀自は毅然として毫(ごう)も愁情なく、諄々(じゅんじゅん)子女を訓(おし)えて、非常の場合に処する覚悟を説く事、常と異らざりき。 恰(あたか)も其折の事なりけり。 良精氏の兄・権三郎氏*は、其頃、僅に十一歳なりしが、一日渓流に出でて食器を洗い過って箸を失いしかど、元よりさして意に留むべき事にもあらねば、帰って此由、何気なく刀自に語りぬ。 其時、刀自は子女三人を膝下に招き、襟を正うして語るよう、今更其方(そち)の過失を責むるにあらねど、こは小事に似て決して小事と云うべくもあらず、昔時(せきじ)平氏の一族遁れて五家の山奥にありける頃、何ならぬ器物を水に流してゆくりなく敵に在所(ありか)をしられたる例(ためし)もあり、斯くて我等の難を此地に避くるも敵は既に近く此下流にあれば、彼の箸流れて不幸にも其手に落ちなば、五家の山の故事*は目の前、大事というは此事のみ。 御身等なお如何に幼しとも、弓矢執る家に人となり、他日、君家(くんか)に尽さんと思う志あらば、斯(かか)る事だに夢さら疎忽(ゆるがせ)に為(せ)ぬものとぞと、繰返し繰返し諭しけるとぞ。 斯る混乱の間にありて其児を思うの切なる余り、さまでの事まで能(よ)く心を止めたる刀自の用意は実に驚嘆の外ならずや。 (注)兄・権三郎は、自由民権運動家となり、後に代議士になっている。 当時、継之助の驍勇は其比なく頻(しきり)に敗卒を励まして、程なく長岡城を恢復しけるが、大廈(たいか)の倒れんとする時、一木の以て支えがたき譬(たとえ)にもれず、加うるに王師の勢威、日に熾(さかん)にして、城乗取りも束の間や、日ならずして城は再び官軍の有に帰し、継之助も遂に潔よき最後を遂げぬ。 勢已(すで)に斯の如くならば、流石雄藩の聞こえ高かりし長岡藩も、今は散々に蹂躙せられ、味方は身を置く処もなかりき。 是(ここ)に於てか、刀自は更に山中の隠家(かくれが)を後にして、会津に走り暫(しばら)く其処(そこ)に落着きしが、間もなく其処(そこ)も兵火の巷(ちまた)となりしより、再び出でて米沢に遁れ、転じて仙台に趣くに至りぬ。 其間の困苦は実に名状すべからざるものありしが、刀自は常に子女を励まして訓戒甚だ務めたりき。 斯く兵乱鎮定後、儀兵衛翁は藩の少参事に任ぜられ、昔に変らぬ栄達を見んとせしが、盟友河井継之助の已(すで)に彼の世の人たる上は、要なき禄を貪(むさぼ)らんも心ならずとて、早くも致仕したりしが、重ね重ねの不幸さえ打続きしが上に、翁は病の為に一身思うが儘(まま)ならず、これより一家の経営は一に権三郎氏の手腕に俟(ま)つ事とはなりぬ。 良精氏が苦学は皆長兄が資を助くる処たりき。 一度(ひとたび)、君家の没落の当り、頼みに思う夫には暫時(しばし)も身を寄する術(すべ)もなく、唯子女三人に事無からしめんと、或(あるい)は野に寝(い)ね山に伏し、落人(おちゅうど)の身の悲さは風の音にも心を止めて、幾百里の他郷へさすらいけん。 刀自が当時の辛労果して如何なりしぞ。 然も刀自は流石に武家の配たるに恥じず。 斯る間にありても、従容迫らず、心中自から余裕の存するありき。 すみ棄て出行く庭に打靡き、誰まねくらむ、青柳の糸 等の数首は、皆当時、事につけ折にふれての吟詠にて、斯る場合にありても猶嗜好の道を忘れざりし刀自の心の中こそ床しけれ。 Best regards |
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梶谷恭巨
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1947/05/18
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