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江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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 各位

しばらく書いていません。 最大の理由は、『柏崎通信』本文と類似した資料の掲載がある為です。 また、先にも、ご案内したと思うのですが、原資料が写真撮影の為、不鮮明な部分もあり、また、一昨年、大病をし、且つ年齢からか視力が衰え、入力に困っている事情があります。

斯く言う事情で、知人友人にも、協力をお願いしたのですが侭ならず、長い間、休止している次第です。

申すまでもなく、近代デジタルライブラリーでも、TEXT化が薦められていると思います。 一私人として、入力をするには、何しろ関係分野さえも厖大な次第。 敢えて言えば、ご協力頂ける方がいらっしゃれば、協働して続けたいのですが。

お詫びとご協力のお願いを兼ね、ご報告する次第です。

Best regards
梶谷恭巨

E-Mail: 
yasuhiro.kajitani@gmail.com
Blog :    
http://kashwazakitushin.blog.shinobi.jp/ 『柏崎通信』

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(22)他人の技能を見出すは容易ならず、附佐藤某女の咏歌(詠歌)と野津中将(鎮雄)文藻(続き)

 又明治維新の戦争と、十年西南役とに、驍名高きありし故、陸軍中将野津鎮雄君(野津大将の兄)が陸軍省の局長たりし時より、余はよく交りあり、君の勇武なるは常に知る所なりしが、君の文藻に至りては、さしたる事なしと思惟し居たるに、明治八年佐賀役の時、余は久留米に居り、一日官用ありて博多に至りしに、野津中将(其頃は少将なりしと覚えたり)博多に在り、此役に死せり小林中尉の墓に詣でんとて同行をすすめられしゆえ、共に馬を併(ナラ)べて箱崎松原の埋葬場に至りて、墓標に花水を供して帰りがけに、野津君は一首出来たりと申されしゆえ、何がと尋ねしに、

 思きや箱崎山の松が根に、君を残して帰るべきとは

と口吟まれしには余は一驚を喫したり、暫くして是は真に貴君の詠なりやと尋ねしに、君笑を含み、「君は余を馬鹿によるぜ、余は中々歌よみだよ」と申されし、其後君も余も熱海の温泉に浴せし時に、夜来雪ふりて四山皆白く座敷をたて込めて火鉢を擁し居たるに、君は余の座敷の戸を開きて入来られ、今朝は寒くて兎猟にも行かれぬ、君は詩でも作られよ、余はうたでも詠で復た君を驚かさんなどと戯れつつ、出来た出来たとて硯箱を引寄せ、在合(アリアワセ)の半切に、

 埋もれぬ物こそなけれ降る雪に、梅が香のみは埋まれざりけり

と書かれしに、余閉口して一詩も成らざりし、余は久しく交りても数年の後に、君の此文藻あることを見出したり、世人は野津鎮雄君の驍名は知るも此文藻をば知らざる人多かるべし、君の事に付いては世に紹介したき話も頗る多し。

 評曰、先生人を見るの明人、皆其照々たるを称するも、尚此事あり、一見他人を下視する輩深く警(イマシ)むべき也。

(注)野津中将(鎮雄): 天保6年9月5日(1835年10月26日) - 明治13年(1880年)7月22日、鹿児島市高麗町に薩摩藩士・野津七郎の長男として生まれる。 通称、七左兵衛。 父・七郎は、同藩折田家から出て野津家を継いだが、鎮雄・道貫兄弟が幼い時に死去。 兄弟は、親戚などに寄食し、鎮雄が郡山中村の書役の職を得てから同居した。 以下経歴:
慶応3年(186711月、倒幕の密命により薩摩藩兵上京の際、小銃五番隊長。 弟・道貫は、小銃六番隊軍監
慶応4年(明治元年)1月3日、鳥羽伏見の戦で、最初に発砲し、戦端を開いたのが野津兄弟の小銃五番、六番隊と云われる。 道貫は、此の時、六番隊長・市来勘兵衛の戦死により隊長に昇格。 以降、中仙道から江戸へ、更に、総野、白河、二本松、会津を転戦。 道貫は、この間、宇都宮で大鳥圭介の幕軍との闘いで負傷。明治4年(1811)7月28日、兵部権大丞、大佐
明治5年9月2日、陸軍省築造局長、少将
明治6年3月31日、同第四局長(工兵関係)
明治7年4月12日、兼、熊本鎮台司令長官代理
明治7年11月27日、免兼
明治8年6月23日、熊本鎮台司令長官、免第四局長
明治9年6月13日、東京鎮台司令長官
明治10年2月27日、征討第一旅団司令長官
 西南戦争、兄弟共に田原坂で激戦す。 道貫は、征討第二旅団参謀長・大佐)。
明治10年4月、凱旋
明治10年11月20日、中将
明治11年12月14日、中部監軍部長
明治13年7月21日、没
明治13年7月25日、正三位贈
(注)文藻: 文才
(注)野津大将: 天保12年11月5日(1841年12月17日) - 明治41年(1908年)10月18日)、野津道貫、通称、七次。 野津鎮雄の弟。 以下、経歴(以前については、野津鎮雄の項、参照):
明治4年7月23日、陸軍少佐
明治7年1月14日、大佐
明治7年1月15日、近衛参謀長心得
明治10年2月19日、征討第二旅団参謀長
明治11年11月20日、陸軍省第二局長(歩兵騎兵関係)、少将
明治11年12月14日、東京鎮台司令長官
明治12年9月25日、東京鎮台司令官(兵制の改変による)
明治17年2月16日、大山陸軍卿外遊随行
明治17年7月7日、子爵
明治18年1月25日、帰国
明治18年5月21日、中将
明治18年5月21日、広島鎮台司令官
明治21年5月14日、第五師団長(広島)
明治27年6月12日、動員下令(日清戦争)
明治27年12月19日、第一軍司令官
明治28年3月18日、大将
明治28年5月9日、凱旋
明治28年8月5日、伯爵、功二等
明治28年11月9日、近衛師団長
明治29年5月10日、東京湾防禦総督
明治29年10月14日、東部都監
明治33年4月25日、教育総監
明治33年12月8日、兼議定官
明治37年1月14日、軍事参議官
明治37年6月30日、第四軍司令官
明治39年1月12日、軍事参議官
明治39年1月31日、元帥
明治40年9月21日、公爵、功一等
明治41年10月6日、大勲位
明治41年10月18日、没、(68歳)、正二位
(注)明治八年佐賀役: 「明治八年」は、記憶違いか。 「佐賀の乱」は、明治7年(1874)の事。 年表的には、2月1日の憂国党の小野組強談判に始まり、3月1日に鎮圧、4月13日に江藤眞平の処刑に終わる。 鎮圧の契機となったのが、野津鎮雄少将指揮の東京鎮台砲隊と大阪鎮台二個大隊を基幹とする政府軍の総攻撃だった。 尚、この事(石黒と野津会合)が、明治8年であるとすれば、政府軍がその年も未だ、戦地に駐屯していたということだろうか。
 このエピソードは『懐旧九十年』の「佐賀出征、野津鎮雄少将の詞操」にある。 これによると、石黒忠悳は、軍医長として明治7年3月に参戦し、久留米に陣中病院を設けている。 その時、地形から水害を予想し、病院の移転を建白して、病院を移動している。 後に、この事が幸し水害を免れたと書いているが、筑後川の水害年表(インターネットに掲載)によれば、明治7年(1874)8月27日に、「大風・洪水」とあり、三潴(ミズマ)郡一帯が甚大な被害を受け、死者500人、負傷者800人、人家倒壊・流出約20000戸、救助民約11万5千人とある。 文中、「建白して二ヶ月ばかり」とあるから、建白したのは、6月という事だ。
 また、久留米滞在中に、「両三度高山彦九郎の墓を参詣しました」とあり、その後に、博多の病院を訪ねた時に、野津少将を訪問している。 この事から、佐賀の乱後、かなりの期間、戦後処理の為、政府軍が駐屯し、陣中病院が継続したのだろか。
(注)熱海の温泉に浴せし時: 『懐旧九十年』によると、この時、「伊藤博文公夫妻や野津氏夫妻も来ておられ」とある。 明治10年には西南の役があり、野津鎮雄は明治13年7月に死去しているから、梅の開花の時期を考え、明治11年12年あるいは13年の二三月頃の事であろうか。
(注)半切: 書道に使う半紙。

 当時の軍人には、武弁一点張りではなく、文章・文学の素養があったようだ。 日露戦争で有名な広瀬武夫中佐や乃木将軍なども、その一人だろう。 余談だが、福沢諭吉の自伝『福翁自伝』に、緒方洪庵の敵塾時代の師弟関係が書かれている。 当時の師弟関係は、単なる師弟と云うより、親子関係に近いものがあったようだ。 こうした師弟関係が、その後の姿勢に現れるのだろう。 福沢諭吉が自伝を書いた時代、既に過っての師弟関係は既に失われていたとある。 ましてや今の時代、こうした人間味のある師弟関係など望むべくもないのだが、矢張り憧れを感じるものだ。 案外、職人の世界が世情に上るのは、こうした心情的背景があるのかも知れない。

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梶谷恭巨

(22)-他人の技能を見出すは容易ならず、附佐藤某女の咏歌(詠歌)と野津中将(鎮雄)の文藻

 前回には初対面の秘訣とて桑丘和尚の談を述しが、其中にも述べし如く、桑丘和尚の伝法にて失敗したること多きのみか、他人の賢愚を見取るは勿論他人の一技能を見出すことさえ容易のものにあらず、又よく交りて後にあらざれば其技能は悉し難し、况や其心術をや、但し交りて最初にありと思うたる技能が深く交りて後に無くなるあり、又最初になしと思うて後に有りと認むることあり、一二の例を挙ぐれば、余十八九歳の時、遊歴の途中秋の末なりしが、越後頚城郡春日新田迄行き、日暮れて同駅の問屋(当時、駅務うぃ司る職を問屋という)佐藤惣兵衛という家に宿を需(モト)めたりしに、召使う婢僕も少きと見え、年頃六十許(バカリ)なる賤しからぬ老女が出来りて夕飯の給使をし、自ら此家の老母なることを語り、又いづ地へゆかるるかと問いしゆえに、明朝早く出立そて春日山の古城に到り上杉不識公の遺跡を訪い、又予が十二世の祖石黒兵部の旧屋敷跡をも尋ぬる積りなりと話せしに、婆も今年の春久々にて春日山に登りて、一首詠みたりとて、

 きくたびに昔の春ぞ忍ばるる、世をふるしろの鶯の声

と口吟しに、余は最初より田舎の一老婆なりと思い居たる老婆が口より、此うた出んとは実に驚き、俄に言辞に謹敬を加え語り問いしに、江戸の前田夏繁の門なるよし語られ、夫より上杉氏の旧跡に付て種々語り、老女のいわるるには明早朝に行李をば此に預け置き春日山に登られ、朝夕は尚此に一泊せられよとの事ゆえ、翌日暁に出でて春日山の古城趾より林泉寺等を巡りて旧を探り、午後帰り来りしに、老女は曰くまだ夕陽没せざる故に駅後の福島古城を見らるるなら案内すべしとて、先に立ち導きて福島の城趾を見せたり、此福島の城は越後少将忠輝卿の古城趾にして海に臨み規模頗る大なり、巡了(オワ)りて帰途老女は一首詠出たりとて予の矢立(墨壷なり)を乞うて一首を書きて示せり、取りて見れば

 音信(オトズ)るる人もなぎさにあれはてて、秋風さむくふく島の城

 此時余は春日山にても、亦此福島の城にても、七絶三四首を作りたれども、此老女の二首の歌には遠く及ばず、故に今は自身の作詩は忘れて、一句も思出されぬも、老女の歌は記憶して忘るる能わざるなり。

 この段、長くなり、また続きは野津少将の事に移るので、次回に。

(注)佐藤某女: この話は、『懐旧九十年』の(12)「関矢氏と越後巡回」の段にに記載がある。 関矢氏については、『柏崎通信』(730) - 「関矢孫左衛門(北越名士伝・大橋佐平)について」に記載しているので参考に。
(注)春日新田: 国道8号線と国道18号線の交差点の海側に位置する地区。
(注)上杉不識公: 上杉謙信の事。
(注)石黒兵部: 『懐旧九十年』の冒頭(一)「私の家系」に記載がある。 少々長くなるが、「お館の乱」にも、また毛利氏にも関係するので、その部分を引用する。
 「私の家系は越中砺波の石黒氏で、先祖は木曽義仲に従って京都に上ったと申しますが、今日判然としているところでは、関東管領上杉憲政の家臣で、石黒忠英というのがあります。 通称は石黒太郎、入道して静斎と称しました。 これが我が家の系図を遡って最も古い先祖です。 私は、それから十四代に当ります。 上杉憲政が川越の戦に大敗北して、越後に落ちて来ました時、この忠英はこれに随って越後に入ったのです。 この人は、後に京都で没しましたが、その子石黒左近太夫または兵部忠明(タダアキラ)と申すにが、上杉謙信に仕え、謙信の没後上杉家に内訌が起った際、右の左近太夫は、北条丹後守ち共に和解に力めたが聴かれませんので、丹後守は遂に反いて北条(きたじょう)城に旗揚げをしましたが、左近太夫は、暇を乞い、浪人して姉の婿なる、片貝式部を便(タヨ)って、越後三島郡池津に居着くことになりました。 ・・・・・」とある。
(注)越後少将忠輝卿: 徳川家康の六男、松平忠輝の事。 室は、伊達政宗の長女・五郎八(イロハ)。

 この老女の話は、石黒忠悳に強い印象を与えたようだ。 『懐旧九十年』の記載が、それを物語る。 私自身も、このエピソードの印象が深い。 私事になるが、自分は「十邑にも一賢あり」という言葉を座右の銘の如く、よく使ったものだ。 何時から使い始めたか記憶にないが、システム・エンジニアの基本的姿勢と考えていたからだ。 どんなシステムを構築するにも、企業なり団体には、それぞれに運用してきたシステム(体系あるいは体制)があり、それを十分に調査し、そのシステムの長所短所を検討し、新規システムの導入による関わる人々の極端な不都合を拝することが、システム構築の基本だと考える故だ。 言い換えれば、システムが支障なく運用されてきた背景には、どんな小規模の会社あるいは社会にも先人の知恵があると云うことだ。 それを尊重することがシステムエンジニアの本分でなければならない。 そんな訳で、「十邑にも一賢あり」という言葉をよく口にした。 長く、出展は『老子』だと思い込んでいたのだが、改めて調べてみるに、その記載がない。 さて、何所で知ったのか、ご存知の方があればご教授願いたい。

Best regards
梶谷恭巨

(21)初対面の秘訣、桑丘和尚の話

 余は十五六歳の時には已に一人立の志士として(今の壮士とは少し異なり)諸国を遊歴し文武先輩の門を叩き又は有志家に交りしが、其後越後にて桑丘和尚とて年齢五十前後の僧に交りしことあり。 此人中々豪膽(ゴウタン)の人にて、一杯傾けると誰にでも議論を仕掛け、随分人に怖れ嫌われる人なりしが、或時余に語て曰く、君は年齢に不似合に才膽あるが、此時世では幸に生きて居たら此先きに頗る多事なるべし、此に余が是迄数十年間実験せし世渡りの秘法数々ある内に於て初対面の秘訣を伝うべし、盥(テアラ、たらい)い嗽(クチスス)ぎて来るべしと、於此直に盥嗽(カンソウ)して教を乞いしに、和尚の曰、別儀にあらず、初対面の人には決して謙屈すべからず、頗る傲岸に構え他人(ヒト)を屁とも思わずして対すべし、十の七八は夫にて通るものなり、夫にて通らぬ時即ち己れより秀抜の士には、どうしても敗けねばならぬ、敗けるには一寸も一尺も同じ事だ。 一度試みて後に敗ても、決して晩(オソ)くないと、余此言を聞て心に以為(オモエラ、思うに)く年長者故に謹みて説を聞くものの、和尚の説粗暴虚喝(ソボウキョカツ)取るに足らず一杯喰わされたりと、然るに其後四方に周流し幾多の人に逢いしが、時には和尚の此言を応用し、実効を得たることなきにしもあらざるも、其為に大失敗を来せし事亦多し、詰りは傲岸自尊して、後に謝するの敗を取るよりも、どこ迄も謙遜して下の方から他(ヒト)の人相を熟観し、此人彌(イヨイヨ)我が下た手だなと鑑定を遂げたる後に、漸(ヨウヤ)く自尊を表するも決して晩(オソ)からざる也、併し今の世上には、若し桑丘和尚をして生きて在らしめば、和尚の衣鉢を伝え、否出藍の人多しとて悦(ヨロコ)ばるべき輩も少なからず、和尚今何所に在るか、もはや此世には居らざるべし。

 評曰、和尚対面に傲岸高慢にして、次回より謙譲なる人、今世に多し桑丘和尚の宗派、今世に盛なるものか。

 十五六歳頃と云えば、石黒忠悳が、信州中之条から江戸に登る途中、勤皇の志士・大島信夫と逢い、共感して、そのまま京都に行った年であり、翌年、万延元年(1860)に片貝村の石黒家の家督を相続した頃である。 その後とあるから何時の事になるのか不明だが、『懐旧九十年』に出てくる寺といえば、母を葬った石黒家の檀家寺・池津の真福寺しかなく、桑丘和尚は、その住職であったのではないかと推測するのだが、その後の経歴からも、断定する資料が見当たらない。 そこで、池津の真福寺に問合せし、現住職と話したのだが、矢張り確証は得られなかった。 

 ただこの話、石黒忠悳自身が、少年期より独立不羈の人であり、諧謔を好む傾向があることから推測すると、評者が謂うのとは異なり、况翁は必ずしも不評として、このエピソードを揚げたのではないとも思われる。 例えば、佐久間象山を訪ねた場面には、むしろ、人を人とも思わぬ、当に傲岸不遜の風が見えなくも無い。 何しろ、これはと思うことは、何でもやって見るのが、石栗忠悳の真骨頂とも言えるのである。

 第一、この文章を読んで、桑丘和尚の話から初対面の秘訣を語っているようには思えないのである。 どうも、石黒忠悳の話には、その裏の裏まで考える必要があるのではないか。 兎に角、文中にあるように、石黒家を相続した早々に、石黒家の故地である池津に新居を建て(長岡の神官の家を購入し、移築改造している。 因みに、当時の物価の参考として、その費用は98両余りと書いている。)、私塾を開き、近隣の交流も盛んにし、更に各地の志士たちの溜り場の感を呈するほど交流の範囲が広がり、関矢孫左兵衛と勤皇論を掲げて越後各地を周遊し、翌年には妻を娶り、会津藩から指名手配され、翌々年に佐久間象山を訪ねているのである。 僅か二三年の間の事なのだが、この騒々しさは尋常ではない。 しかも、天職とも言うべき医学を志すのは、元治元年(1864)20歳の時なのである。

 維新の前夜から昭和16年の逝去まで、97年間、これ程の歴史的証人を他に見ることは出来ない。 因みに、日中戦争が始まるのは昭和14年である。 浅学、况翁の真意を知ろうと模索するが、儘にならない。 しかし、况翁の足跡を時間軸に置くこと、江戸末期から昭和初期までの歴史の別な側面が浮かび上がってくるのではないかと、(遅々として進まないが)、『况翁閑話』のデジタル化を進める次第である。 拙文、ご容赦。

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梶谷恭巨

 『况翁閑話』の緒言を省略していたのだが、矢張り、これを省略する訳には行かないようだ。 そこで、遅ればせながら、それを掲載する。

 人の世に立ち志を成す、頼る所あるなり。 其所、頼なくして立世成志する者、古来稀なり。 明治維新は志士風雲に乗ずるの時期、而して此に三拾四年、其間、世に立ち志を成し名を一世に揚げたるもの幾千百、然れども仔細に其出所を尋繹すれば、曰(イワク)藩閥、曰夤縁(インエン、てづる、つて)、此二に頼らざるものは私に其技術を鬻(ヒサイ)で、以て之に頼るものなり。 彼の聳肩(シュウケン、肩をそびえさせ)謟笑(トウショウ、疑って笑う)、以て上長の歓を迎え、姦商と結託して、上長の財を殖し、酒楼に随伴して愛妓を妁し、以て身を立て栄を得る輩に至っては、此に列するに足らざるなり。 何をか藩閥と謂う。 身雄藩に生れ、若くは身を雄藩に投じ、藩威を負うて進み、同藩旧故の元老に頼て、身を立る者是なり。 何をか夤縁と謂う。 元老若くは豪富の子女を納(イ)れ、若くは之に子女を納れ、其姻戚となりて縁を求め身を頼るもの是なり。 何をか技術を鬻で之に頼ると云う。 碁奕(ゴエキ、奕も碁の意味)書画謡舞歌曲を巧にし、若くは愛妾狎妓(ギョウギ、芸妓)の病疾を療し、以て権家(ケンカ)豪紳の歓を迎うる等、其他此類、皆是なり。 如此の世に立ち身を一介の書生に起し介然(しばらくの間)自立、藩閥なく夤縁なく、又一点技術を私鬻(シシュク)するの媚侫(ビネイ、こびへつらう)なく、全く身を職事に尽し、遂に藩閥元老輩に信敬せられ、職事を以て外国の識者に称賛せられ、身健に名盛なるに方(クラベ)て断然冠を挂(カケ)て栄を後進に譲りたる者、况翁石黒男(男爵)を除て、亦誰かあるや。 蓋(ケダ)し男の脳髄、常に冷静、大事に対して動くことなく、小事に応ずるに、忽(ユルガセ)にせず、平常の談片語屑洋々旨味滋(マ)し、太陽記者、此に見あり、明治三十一年より同三十二年に亘れる間、時事に応じて談話せらるるものを得る毎に、之を世に公にし積て数十に至る。 諧謔の間、憂世警人する所深し、既に白玉楼に帰り、雪池翁(福沢諭吉の事)亦尋て逝矣、警世の語を聞くこと稀なり。 幸に况翁在るを以て、世未だ寂寥(ジャクリョウ)ならざる也。 男翁と称するも齢(ヨワイ)未だ耳順(60歳、論語の「六十而耳順」より)に達せず。 世人尚翁に望む所あるなり。 此編宜しく男の実歴談及况翁叢話と併せ見る可きなり。
 明治三十四年十月  坪谷善四郎謹識

(注)太陽記者: 『太陽』は、大橋佐平の博文館から明治28年1月に創刊された雑誌。 記者とは、坪谷善四郎の事。 尚、坪谷善四郎については、『况翁閑話』の第一回を参照の事。
(注)白玉楼に帰り: 「白玉楼中の人となる」(『書言故事』にある、唐の文人李質の臨終に天の使いが来て、「天帝の白玉楼成る、君を召してその記を作らしむ」と告げたという故事による) 文人墨客の死ぬこと。 (広辞苑)
(注)耳順に達せず: 明治34年、石黒忠悳(况翁)は、57歳。 この年、予備役に編入され、日比谷公園の設計に参加している。 因みに、日比谷公園が完成したのは、明治36年だった。
(注)况翁叢話: 『况翁叢話』は、明治34年2月25日発刊、民友社から出版された。 内容としては、閑話と異なり、経験談的傾向がある。 因みに、第一回は、「佐久間象山先生に見(マミ)えし時」である。 また、同文集中にある「飲食物検査に就いて」は、『柏崎通信』の「脚気論」に関する記事に引用している。 尚、『况翁閑話』の後に、『况翁叢話』を掲載する予定である。

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