江戸後期、明治・大正期の文献・資料から興味あるものを電子化する試み
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第五回
さしも十余年が其間、欧洲に留学して世の酸苦をも嘗(なめ)たれば、生れ故郷の日本に帰りなば、功名富貴は手に唾(つばき)して得べしと思いたる清水は、此の三四週間の経歴に、東京の社交を一と通り見物いたしたるが、事々物々思の外のと、のみにてありき。 尤(もっと)も西洋に居たる時にも日本では斯くあるべしとは兼て推量したれども、まさか是程とは思わざりき。 上流の部人士には特有の性質と知れたる君子国の名物日本、一手捌きの徳義は、斯く腐敗したりとは思わざりき。 江戸っ子の侠(いさ)み膚(はだ)と云われて三百年間養成したる義侠の気風は、僅かに二十年か三十年間に其痕跡を絶(た)たんとは思わざりき。 義理にも人情にも構わず己れさえ都合よければ何でもすると云う事が開花の当世風なりとは思わざりき。 御髯の塵は積らぬ先に払い、閣下の高諭敬服仕(つかまつ)ると竈にも媚び奥(おう)にも媚び以て栄達の道を計るが、世上の欣羨(尊敬し慕うこと、うらやむこと)する所なりとは思わざりき。 不景気な顔色を持ちながら美人を気取り無闇に男子に向って横柄なるが女権の伸張とは思わざりき。 何事もかごとも皆思わざる外の有様に打驚きては且つ嘆息せしが、ナニモ是しきの事に恐れて男子たるものが其の宿望を空しくすべき、固より覚悟の上なれば、艱難辛苦を凌ぎ通して目的を達するに何かあらんと思い直して、勇気を鼓舞したれども、其の内心の底の底を窺へば、第一等の甲鉄艦が目ざす港に攻め込むに当り、水雷の海中に埋めあるに遭うたるが如きに相違なかるべし。 是にても己(すで)に清水は前途の遼遠なるを覚えたるに、茲に又其心に蟠(わだかま)りたる一種の苦労は叔母のお賢と従妹の乙女が事なり。 東京に帰りてより二十日余り、清水は諸方の知人を朝野の間に尋ねたれど、其話とては、お世事に非ずんば、則(すなわ)ち大法螺ばかり、口と心の裏表、それを誠と思ったら瓢箪から駒、壜子(ボットル)から虎が出ようも知らぬ危(あぶな)い境界。 その席を退(たちの)くごとに、アヽ先ず宜(よ)かったと、ホット太息(といき)を吐(つ)く計りなれば、何会何社に赴くとも、心底より面白いと思う事なく、真に打解けて飾りなしの話とては乙女母子(おやこ)に会うとき計りなり。 然るに乙女母子が朝夕の煙(けぶり)を立兼(たてかね)るを見るにつけ、清水は益々不便の念を増し、何とかして其苦現を助けたきものと諸事の相談に與(あず)かる中に、乙女が姿色(ししょく)と云い才芸と云い申分のない娘ぶりに心を動かし深く恋慕の情を添たり。 一体ならば恋に焦がるゝ思をば押し包んで、穂に顕さぬが男の嗜みと云う筈なれど、清水は中々左に非らず。 恋は曲ものとは誰か言いたる不当の邪語なるぞ。 夫れ恋は高尚なり、優美なり、愛情の由て感発する所なりとて、茲の丈を打明(うちあか)して口説(くど)きたれば、乙女は恥らいながらも素より憎からず思いたる潔が望、ナニガ扨(さて)貴君(あなた)さえお宜しくばと真赤になったる色よき返事。 ソレナラ叔母に相談と出掛けたるに、叔母は娘が為には此上もなき結構な事なれど、卿(おまえ)さんは立派な清水の本家、此方は今は裏店住居(すまい)、提灯に釣鐘、合ぬは不縁の基ね。 御互(ごたがい)の為になりませぬと断られ、失望の至りとはなりはてぬ。 去れども根が当人同士、好き好かれたる中なれば、お袋が少々不承知でも、何の差支あるべき、ソンなら貴君がお身の有附が出来た上は、其時こそ立派な夫婦、夫までは何年たつとも、仇(あだ)な心は御互に、出しはせじと誓つゝ、深く行末を云い替(かわ)したり。 サア斯うなると乙女母子の裏店住居は甚だ以て清水が心中に安からず、如何(いかで)して是を救うべきと、兎つ追つ手段を考えしが、或る日の事なりき、清水は乙女母子を音信(おとづ)れ、容(かたち)を改めて申けるは、時に乙女さん卿(おまえ)さんには兼々(かねがね)伯父さん(潔が父の金作を云う)から遺物(かたみ)を下されてあるによって今日改めてお渡し申すとて、懐中より紙に包みたる一品を取出し、書替の手続は私が直に致して上ましょうと述べたり。 乙女は何品にやと怪しみつゝ、母のお賢と共に包を解て見れば、コハそも何(いか)に整理公債額面七千円の証書、清水潔と記名の品、お賢はあきれて暫し清水が顔を見詰しが、潔さん卿(おまえ)さんは我等母子をば貧乏と侮って馬鹿にする気か、此の公債が何の遺物(かたみ)で御座ろうかと、開き直って証書を押し返したり。 清水は、イヤイヤ戯談(じょうだん)でも無く馬鹿にも致しませぬ。 実の所は父が亡なって後に用箪笥を改めますと、兼て認(したた)め置たる書置の遺言状が御座って、其中に金七千円は我姪乙女へ遣(つかわ)すべし、但し当人十七歳に相成るまでは潔これを預り置べしと認めて御座りますれば、則(すなわ)ち父より乙女どのへ遣しまする遺物(ゆいもつ)、たしかにお請取下さりませイ。 左様で御座いますか、併しそんならナゼお父さんが御隠れなすった時に、其事を御披露下されましなんだか。 夫は卿さんの御都合とした所が夫程の訳なら、どうぞ其遺言状を拝見が致しとう御座る。 御尤もでは御座いますが、其遺物(ゆいもつ)の事を直に披露いたせとは書て御座りませぬから、今日まで猶予しました、且つ其時直に申さぬのが行末を考えたる父の所存に叶ったかと存じまする。 又其遺言状は外に他見を憚りまする義も認めて御座いますれば、お目に掛る事は御免を蒙ります。 そう有ては愈々(いよいよ)疑わしゅう思わるゝ、設(たと)い其日の暮しに困ればとて理(わけ)もないのに大金を甥より貰い受る事は致しませぬと、飽まで受(うく)る色なければ、清水は深く其潔白なるに感じ入り、誠にお立派なお心だて恐入って御座います。 去ながら父の遺言を達しませぬは不孝の恐れ、良しまた遺言状を見ぬとても、伯父の財産を遺物に貰うのは姪の身では当然(あたりまえ)、すでに七年前に定まったる遺物、相続法に照しても左様で御座ります。 父の財産を其子一人で総領いたし、甥姪に分領させぬと云う法は決して無い道理、但し狡五どのへは何とも父より遺言が御座りませんから、左様御承知下されいと、理を尽して諭したれば、お賢乙女は倶に嬉し涙にくれ、コレ全く潔が計いにて態(わざ)と父の遺言なりと申し做(なし)て、其財産を分配せるに違いなし、抑(そもそも)潔が父が不慮の禍に其身を果したる時に、夫(おっと)の山四郎どのが身代を掻回(かきまわ)したる怨(うらみ)さえあるに、其怨をば恩をもて報うる事の有難さよ。 併し此七千円は潔どのよりお預り申たる心得にて大切に致し決して遣い減しは致さぬ、まさかの時には何時でも卿さんの品だから取てお遣いなされよと申述べて受納したりける。 是よりして乙女母子は駿河台の辺(ほとり)に引越し、乙女は女子高等学校に通い、専ら勉強したり。 原来(もとより)子供の折に普通の教育を受け、殊に歌舞音曲の事は天性の長所ならば幾ほども経ずして第一と評判せらるゝ様になりぬ。 今回も特に帰すことは無い。 ただ、ルビが振ってあるとは言え、同じ漢字を様々に読ます所など、当時、漢字の読みや送り仮名、句読点などの文法が標準化されていない状況を知ることが出来る。 また、読者層がどのような人たちであったのか、書誌情報だけでは解らないが、作者・桜痴のように、先ず漢文を基礎とした文化と、江戸時代既に識字率が世界一だといわれた庶民の仮名文化とが入り混じって、こうした文体が生れた、あるいは標準化の過程にあった事が伺える。 このように考える、言語が生き物であると感じるのだが、逆に言えば、それだけに標準あるいは基礎の重要性を痛感する。 先日、NHKのBS1で、中国における繁体字復活に関する討論を放送していた。 インターネット投票による視聴者の投票結果は、繁体字の復活に反対が圧倒的多数だったが(反対約70%)、文字は単なる道具であるとする政府見解に対して、四千年の歴史あるいは文化を継承することは、文字が単なる道具ではなく、その表す所の心、あるいはコミュニケーションそのものを意味すると主張した繁体字復活派の意見には、感じるところ大であった。 因みに、この復活論を唱えた学者は、東京大学で学んだと云う。 これは伝聞に過ぎないが、現在、中国の古典籍が最も多く残り、最も研究が進んでいるのは日本なのだそうである。
明治維新後の廃仏毀釈などの外来物排斥運動で、多くの美術品などが海外に流失したことは知られているが、多くの漢文古典籍が、中国に買われたという事実を知る人は少ない。 その後の動乱で、それさえも失われ、第二次世界大戦後、復、同様な状況が起る。 例えば、司馬光の『資治通鑑』などは、2000万円の値が付いたと聞いたことがあるくらいだ。
数年前(もっと前かもしれない)、歴史的に漢字を使った国の学者が集まり、名称は忘れたがフォーラムが開催され、その一貫として、漢文小説プロジェクトが開始されたと云う。 因みに、参加国は、中国、台湾、韓国、ベトナムではなかったかと記憶する。 その中の一書に、柏崎の藍澤南城著『啜茗談柄(せつめいだんぺい)』がある。 越後奇譚集とでもいうべき本だ。 海外に紹介された数少ない日本漢文小説だ。 日本では、2001年に発刊されたが、既にプレミアが付いているようである。 憶測に過ぎないが、先のTV討論の話を考えると、フォーラム自体先細りしているのではないだろうか。 尚、漢文小説で謂う「小説」とは、叢書あるいは文集というような意味らしい。 こんな事を考えると、古書・古本の電子化の必要性に思い至る。 『あおぞら文庫』の活動に、その意味でも、共感と賞賛を。 強いて言えば、この活動が、地域の歴史に及べばと思うのだが、果たして現状は如何なるものであろうか。 Best regards PR 第四回
今回は、思わぬ苦労。 まさか十干箇条書きで状況説明とは。 当時の人であれば、あるいは、その界に多少の知識でもあれば、受ける印象も違うのかもしれない。 何と言っても、福地桜痴大先生の文章である。 こう云う書き方もあるのかと、呆れるやら感心するやら。 しかし、テンポがある。 リズムがある。 これも比較は出来ないが、ヘンリー・ミラーのテレグラム・センテンス的印象のちらほら。 諧謔のジャーナリスト、やっぱり、ミラーではなく、チェスタートンか。 Best regards 第三回
自分は文学のことは分らないが、場面描写、特に人物描写が長いのは、この時代の特徴の一つだろうか。 実は、この場面には、2ページに亘って挿絵が入っている。 前段の見せ場と云う事であろうか。 尚、この挿絵は、「近代デジタルライブラリー」で『もしや草紙』を検索し、本文の16コマ目で見ることが出来る。 Best regards 第二回 (続き) 此清水の父と申すは、清水金作とて幕府の頃は広く諸大名の用達を務めたる歴々の町人なり。 御一新の後は身代も少し傾(かたぶ)きて、原(もと)の如くには有らざりしかど、幸いに是までの用達金が公債の処分と相成ったるに附き、再び息を吹返し、銀行諸会社の株をも数多(あまた)所持なし、駿河台甲賀町辺に家を構え裕福に暮したり。 子供は男子(おとこ)両人女一人を設けたれども、総領の娘は七歳のころに死し、末子(すえっこ)も亦、生れて程なく失(な)くなりたれば、僅に一人の男子のみにて、是が即ち清水潔なり。 然るに金作の妻が明治十七年に身まかりて後は、また後妻(のちぞい)を迎えず、潔をば大切に育て、十二歳の頃には尋常中学に入れ、十六歳の頃には高等中学に転じて勉強せしめ、只管(ひたすら)に其成業の日をのみ楽しみとしたるに、如何なる宿世(しゅくせ)の因果にてやありけん。 明治二十一年の夏に至りて、金作は胃病に罹り、兎角 に気分の勝れざりければ、医師の勧めに由(よ)り、且は鉱山の塲所見分かたがた、七月上旬に東京を立ちて、会津地方に赴き、十三日より磐梯山の温泉に療浴したるに、其月十五日の朝、おもい掛なき磐梯山の破裂噴火の変に遇い、非業の最期を遂げ、空しく泥灰の中に葬られたるぞ無慙(むざん)なる。 潔は此変を聞きて親族と共に急ぎ其塲所に駆付たれども、固より救うべき手段とても無く、遺体(なきがら)さえ漸くの事にて、人夫を頼みて掘起したる位の事なれば、泣々其近傍にて荼毘の煙となし、白骨を携えて東京に帰り、法(かた)の如く谷中なる菩提寺に葬り、扨(さ)て夫より親族うち寄りて、家事取纏め方の相談に及びたるに、清水の家には金作と潔の父子(おやこ)のみにて、其他は皆召使の男女ばかりなれば、潔が家を立る迄は斯(か)く多人数のものを用もなきに抱え置くに及ばずとて、中陰(人が死んで49日の期間)の過(すぐ)るを俟(ま)って、数多(あまた)の男女には皆暇を出し、其家屋家財は都(すべ)て売払いて資金に替え、取引の銀行に預け、潔は一旦叔父の家に同居する事に決したり。 此時、潔は十九歳にて、才智に秀で学術も優等なるが上に、生得温和にて沈着たる若ものなりければ、深く其身の上の前途を考えて、浮(うか)とは人の口車に乗らず、親族及び懇意の向に、清水が家産を目的に種々(いろいろ)と信切めかしく相談相手に成て遣ろうと云う、お世話焼があれば、潔は宜(よ)き程に接遇(あしらい)て打払い、一人にて其処分を工夫したるが、去るにても父の金作が所有財産の中にて地所家屋家財公債株券の類は発輝(はき)と分てあれど、銀行への預け金、諸所への貸出し金は何程ありしや更に分らず。 勿論、帳面類証文類も慥(たしか)に父が手許の用箪笥に入れ置いてあったに相違ない事は知ったれど、磐梯山の変事の頃には、潔は学校暑中休にて学校朋儕(ともだち)両三輩と打連れて信州の方に旅行したれば、変事の電信を請取ると其侭に、旅行先より駆付たるに付き、帰宅の上にて取調べたるに、帳面類はあれど肝心の銀行通(かよ)い帳や貸金帳は見えず、証文箱の内も反古証文計(ばか)り、十余通あって生(いき)たる証文は尽々(ことごとく)紛失したり。 是は潔が未だ帰宅せざる前か夫とも葬式等の混雑に叔父なる清水山四郎が番頭と腹を合せて仕組し事ならんと勘は附たれど、証拠なければ持出す事も出来ず、潔は残念ながらも深く一人の胸中に蔵(おさ)めて色にも出さざりき。 斯くて其年の九月下旬に至りて、金作が百ヵ日の法会も鄭寧に執行(とりおこな)いて後に、潔は地面家屋株券其外をば、尽(ことごと)く売払いて整理、公債証書二万円を買入れ記名となして、是を父の代より取引の某(それがし)国立銀行に預け、其外に現金凡(およそ)一万円ありけるを、叔父が頻(しき)りに勧むるに付き止を得ず、叔父が取締役を勤め居たる某私立銀行へ年六分の利にて定期預金となし、此の利子と右公債の利子とを合せて毎年千六百円は潔が手に入ることに定まったり。 斯く家事を取片付たる上は別に用事もなければ、潔は兼て心懸たる西洋留学の志を決し、右の千六百円の中にて毎年千円づゝを留学の先に送り、残り六百円の中にて菩提寺の付届け諸税其外を仕払い、其残りは叔父の銀行へ預くる事に約定を取結び、潔は是より満十五年の留学にとて、同年十月中旬、横浜出帆の米国(アメリカ)飛脚船に乗込み、馴(なれ)し東京を後になして外国へは赴きたり。 それより潔は十月下旬に桑港(サンフランシスコ)に着し、米国の大陸を経て、新約克(ニューヨルク、ニューヨークの事、紐育が一般的)に達し、同地より大西洋(アトランチック)汽船に乗りて英国(イギリス)のリバプールに着船し、倫敦(ロンドン)に赴きて学科を終(おさ)め、明治廿二年にはケンブリッヂ大学に入り、同廿五年に卒業して法科得業士(バチエロル・オブ・ロウ、バチェラー・オブ・ロー、B.L.)の学位を得、なおも同校にて研究の功を積み居たる。 内に日本にては、潔の叔父が株券の相塲に引掛って非常の失敗を招き、当人の身代は云うに及ばず、其銀行までも閉店と相成ったる騒動なれば、気の毒なるかな潔が預ケ金一万二千余円は皆無となれり。 幸に国立銀行の公債証書は記名ゆえ、叔父も流通する訳にゆかず、其上に其銀行の頭取が清水潔より預ったる公債なれば他人に渡すことは相成り申さずと、厳しくはね附けたるに由って、夫だけは傷が附かず、右の利子を其以後は彼の国立銀行より送り来るにて、潔は学資に差支なく勉強し、遂に学士(マスター)の位に昇ったり。 夫よりして潔は大陸に渡り、仏蘭西(フランス)、独逸(ドイツ)の両国にて有名なる大学に入りて、猶(なお)も其功を積み、凡そ法律経済商業の各科みな其奥儀を究め、殊に弁論文章に長じ、速記は尤も得意の技にてありける程に、諸会社あるは諸商店にても、潔を聘雇(へいこ)して、一廉(ひとかど)の役員に成さんと申入るゝも多けれど、潔は深き望みありとて、皆これを断りて、専ら実地の研究に力を用いたれば、到る処にて、日本人中抜群の人物なりと賞(ほめ)られ、別(わけ)て婦人仲間にては尤も評判よく青年の花とまでに呼ばれたり。 斯く勉強の上にて、今は日本に帰り、事業に取掛かりても懸念ある可(べ)からずと、人も勧め自分も左こそ思いたれば、去らばとて今年明治三十六年の一月を以って仏国(フランス)のカレーより海底遂道(トンネル)の鉄道を経て、英国のドーバーに達し、三ヶ月ほど倫敦(ロンドン)に滞留して、再び帰路を米国(アメリカ)取り、加拿陀(カナダ、加奈陀が一般的)のワンクーウェル(バンクーバーの事)港を本月(八月)十日の夕に発し、同き二十日の朝を以て青森の港に着し、同所より直に鉄道に乗り、翌日廿一日の夜に東京には帰り来れり。 叔父の山四郎は其頃既に死し遺族が下谷お多福町に住い居るとの事なれば、先ず其方(かた)に落付くか、然らずば、其昔し父の金作が召仕いたる番頭某(それが)しが、お玉が池の宅か、又は旧友の某が山伏井戸の宅に落付かんと思いたれど、宿所が分らねば據(よんどころ)なく、其夜は日本橋辺の旅館(ホテル)に一泊して、明けなば誰を音信(おとづれ)て、心事を語り相談せんと思案したるに、郡樫蔵こそは差向き其人なるべけれ。 彼は随分いやな人物なれど、父が格別に目を掛たる漢(おとこ)なり。 其上に此節は身代も出来て紳士の列に加わり、殊には先年海防費献金にて従八位になったる位なれば、まさかに悪くは取計(とりはから)うまじき。 兎にも角にも、まず此漢(おとこ)を尋ねて見んものをとて、扨(さて)は本文の如く音信(おとづれ)たる事と知るべし。 今回は、書くことも余りない。 物語の進展をただ見守るだけというところか。 ただ、これを読むと、何だかサッカレーの『Vanity Fair(虚栄の市)』辺りを読んでいるような趣がある。 桜痴の『戯著(ざれがき)』と比較にはならないが、漱石にもそんな雰囲気を感じる。 ヴィクトリア朝文学の影響を受けているのだろうか。 Best regards
第二回 畳数にて申さば、凡(およ)そ十二畳ほどの座敷にて二階の巽角(たつみかど)。 尤(もっと)も外部(そと)は煉瓦造の西洋家(や)なれど、内部(うち)の造作は西洋三割日本六割支那一割と云う折衷主義にて、即ち主人の居間なり。 水戸マーブル(茨城県真弓山産の大理石「寒水石」、水戸藩の御用石だったそうだ)の爐板(マントルピース)の上に薩摩焼の花瓶(かへい)一対を左右にならべ、(牡丹の花盛りに蝶が舞い遊びたる横浜仕込の絵付なり)、中央には瑞西(スワイス、スイスの事)名物の置時計。 焼附の水金はピカリピカリ(繰返し記号)と硝子(ガラス)の覆(おい)の中に光ったり。 其側(そのそで)に白水の小箱を萌黄絹真田(真田紐の事)の十文字に掛ったる侭にて載せ置たるは、其中なりとも知らねども、大かた昨日懇意のものが京都土産に持参したる道八の急須に非ずんば、是れ今春の近火に世間の附合で、據(よん)どころ無く恵恤金(けいじゅつきん、義捐金)を出したる賞として、先日区役所の手を経て賜わったる木杯一個なるべし。 唐木縁の姿見(鏡の事)は硝子(ビードロ)板薄くして、且つ扁(ひずみ)たりと雖(いえど)も、出処正しき競売(オークション)の古物なり。 縫箔(ぬいはく)したるテーブル掛は品柄あまり結構ならずと申せども、敢て博覧会の残品には非らず。 机の上に多数を占めたるは日本帳面に西洋薄冊(ノートの事)。 其外は諸銀行会社の報告書にて、黒塗皮銀金(ぎんかな)ものの提包(カバン)の陰より半身を現わしたるは、何事につけても主人が第一の顧問と頼める広島算盤(広島算盤または芸州算盤は江戸時代辺りから有名だったが、次第に雲州算盤にシェアを奪われていった)なり。 硯箱の傍(わき)に堆(うずたか)く積みたるは一目にて出入の仲買より毎日送り越せる相塲(そうば)付とは知られたり。 壁に掛たる応挙(丸山応挙)の画幅は東京仕入なれど三級(どういう意味加)の涙を昇る程の勢ある鯉とも見えねど、朝日を避けたる窓掛の織物は古物(ふるもの)ながら金糸の色は燦然(さんぜん)たり。 主人は年の頃、凡(およ)そ五十三四と覚(おぼ)しく、頭は半ば禿て昔の名残を留め、背(せい)は頗(すこぶ)る低く、お負(まけ)に肥ったれば、洋服には向の悪い体つきなり。 顔の色は黒々と油ぎったれぞ、揉上(もみあげ)より顳顬(こめかみ)に掛けて生(はえ)たる白鬚(しらひげ)をば一しお白く見せ、眉の太く長きは有がたき和尚さまの如く、眼の小さくて深く窪みたるは田螺(たにし)に、さも似たり。 眼尻の下ったると横鼻の広がったる所は色情の濃そうなる。 相されども夜具の袖の如き唇を固く結びて、益々其面(つら)を三味線の胴の如く角ばらせたるにて、拜金宗(はいきんしゅう)の先達なること、まがう方なければ、人情に牽(ひか)さるゝなどと云う弱みは二十年来、曾(かっ)て之なき欲には無類の剛の者。 五時三十分ばかりなる黒色薄羅紗(うすらしゃ)の上衣(マントル、マントの事)に、同じ色の胴着(チョッキ)を着し、鼠縞(ねずみじま)の大股引のダブダブ(繰返し)したるを三寸短に穿(は)き、其下より赤白ダンダラの履足袋(くつたび)を立派(りっぱ)に顕わし、銀座出来の上履(うわぐつ)をはき、向島製のペルシャ皮もて張たる大椅子にドッカともたれ、原来(もとより)流行物は嫌なれど、襦袢の襟(えり)と袖口は倹約なりとて、白ゴムを用いたるに引替て、金鎖の重たげなを胸にかけ、大なる金時計がシラリとチョッキの隠から龍頭を出したるは、甚(はなは)だ以って不似合なれど、是も抵当流れか到来物ゆえ、據(よんどころ)なく所持するなるべし。 銀縁の眼鏡を掛けて今朝の物価新報を手に取り、相塲の部を暫らく睨み詰たりしが、ニッコリ笑て振返り、時計を見て、モウ十時十五分になるに、まだ寄付の相塲が来ぬはどうだろうと独り呟きたるは、昨日(きのう)から郵船株の上りに余程の利か買玉に乗ったる喜びとは、蠢(うごめ)く小鼻に現れたり。折から此家の下女は名刺(なふだ)を手にもって入来り。 旦那様、このお方が昨日西洋から帰りました。 ご在宅ならが一寸御目に掛りたいと、お玄関へお出でで御座いますと、差出したる名刺(なふだ)を主人は手に取って見るに、表は西洋字でクシャクシャと印刷したるに、裏には行書にて清水潔とは記したり。 ハテナ清水潔・・・・・・・・・・潔と首を傾げて考えしが、ムヽあの清水の息子かと、其人が分ったと見えて、眼鏡の上から下女の顔を見て、コレ初や、其お方を表の西洋座敷へ、お通し申して、只今お目に掛りますと申せと言附け、夫(そ)から田村の真鍮張銀吸口の烟管(きせる)を取り、雲井の烟草(たばこ、雲井は常陸国那珂湊の女郎、その彼女が好んで吸ったのが常陸産のたばこ、常陸はブランド「水府葉」で有名だった。)を鄭寧(ていねい)につぎ、スウスウ云うまで二服ほど吸って、コツコツとはたき、表座敷へは向いたり。 抑も此主人と云うは郡樫蔵とて元は江州八幡在出生(しゅっしょう)の賎しき者なりしが、三十余年前に東京来り、痛く流浪したりけるを清水の父が其辛抱強さを見出して数ヶ月ほど自分の内に置て手代に使い、夫から世話して或る会社に住込ませたるに、三四年の後に給金の余りや内証で稼いだる小金を資本(もとで)に小商(こあきない)を初めたれば、清水の父は更に数百金を出し、有る時払いの催促なしと云う事にて、無証文で貸し与え、其後も度々融通して助けたる程に、樫蔵は段々都合よく、最初は五両一歩三月縛(しば)り、礼金一割、手数料五分と云う酷(ひど)い金を貸して取り付き、後には相応の身上となり、株の上りや米の下りに利運を占め、今では立派な身代。 世間の附合には風下にも置かれぬ人物なれど、何をいうにも金のあるのが其身の強み。 日本橋では指折の高利貸。 旦那々々と立てられて、先ず紳士の列に数えらるゝ人物なり。 下女の案内につれていま、郡が表座敷に通ったる清水潔は、即ち前回の旅帽(りょぼう)先生にて、年の頃、一寸見には三十六七に見ゆれど、年ごろ苦労をした故か、年よりは、ふけて見ゆれぞ、実は三十三四ぐらいなり、髪は黒く多き方(かた)なるを、ワザと短く切りたるは、永の旅行に斬髪が面倒なと暑気の折から頭を洗うに便なるが故なるべし。 眉は地蔵眉にて女の様なれど、眼は太く涼やかにて、才智の勝(すぐ)れたるを表(ひょう)し、鼻筋は通って高く、口元は男には惜いものと云う程に締(しまっ)て小さく、唇薄く歯ならびよく、顔形は先ず丸(まろ)き方にて少々下豊(しもぶくれ)なるが、髭は鼻の下のみ生して其外は綺麗に剃(す)ったれば、其痕(あと)青みたり。 色は一体白き質なれども、顔と手先の少し黒みたるは、道中の炎天に焦(やけ)たるゆえと思われたり。 背(せい)はスラリと高く肉も相応にあって、よい恰幅。 女好のするよりも、孰(どちら)かといえば、男好のする人品骨柄なり。 黒羅紗のフロックコートに同じチョッキを着(ちゃく)し、中形の金時計を打紐(うちひも)にてさげ、縦縞の股引、黒靴、白襦袢(シャツ)の釦鈕(ぼたん)、襟飾りまで、すべて目に立たぬ恰当(かっとう)らる拵(こしら)え。 但しコートには、赤い略紐(りゃくじゅ)を結び、襟には金のメダィルを懸けたるは、是なん外国にて勲章を賜わり賞牌(しょうはい)を贈られたる標(しるし)とて、一際その品格上げたり。 座敷に通りて小さき椅子に腰うち掛け、主人の出て来るを待ちたるに、程もなく出来(いできたっ)たるは、郡樫蔵。 ナニカ横柄顔に挨拶をなし・・・・・・・・・フー、ナル程貴君(おまえさん)は清水さんの御子息だナ・・・・・・・・・・十五年の間洋行して・・・・・・・・・・・是から身と立る事を工夫でねばならぬと・・・・・・・・・・・・・・貴君(おまえさん)の御器量なら屹(きつ)と瞬く内に立派な御出世が出来ますヨ。 御受合だなどと世事ダラダラに返答はすれど、中々世話などしようと云う心の更に無い事は、口は言わねど目が言へば隠せと、色の顕われたり。 清水は郡が親のなじみと云うにつけ、昔なつかしく思い其身の事を打明て物語りしが、今その物語と其身の素性を手短に引絡(ひっから)めて申せば先ず左の如し。 当に「草紙」の感あり。 今までに、福地桜痴の文章を読む機会が無かったが、これは復と無い往き合せ。 旧漢字、崩し仮名には苦労もするが、読んでいて飽きが来ない。 江戸の草紙に明治の気配、何とも不可思議な文章である。 明治の時代背景を知らねばならぬと始めたことだが、この文章は、全く違う側面を見せてくれる。 「戯著(ざれがき)」とは、よく言ったものだ。 この人物描写の妙なる事。 尤も、「妙」の半分は、奇妙の妙に違いない。 同じ漢句に異なる読みや、読み下し文かと思えば、カタカナの英語の登場なのである。 ミキサーに、漢文と和文と舶来単語をごちゃ混ぜにして、一気に回し、文明開化の香り付け。 チェスタートンも真っ青になる。 考えてみれば、今の若者言葉にも、同じことでも起っているのか? いやあー、こりゃあ考えなければ、いけません。 真面目に一言。 読まれる方は、カット&ペーストで、別のファイルに纏める事を奨めます。 尚、文中()内黒字は原文中のるび、赤字は筆者の注釈。 以降、出来るだけ注釈など加えたいと考えている。 Best regards |
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梶谷恭巨
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